文化 CULTURE

夏目漱石 『彼岸過迄』の構造

2018.07.28
「風呂の後」に書かれたこと

 『彼岸過迄』は明治四十五年一月から四月まで朝日新聞に連載されていた小説で、「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうか」という構想のもとに書かれた。その結果、「風呂の後」、「停留所」、「報告」、「雨の降る日」、「須永の話」、「松本の話」の順に六編の短編ないし中編を連ね、「結末」で結ぶ構成の作品が仕上がったわけである。評価は漱石のほかの主要作品と比べて芳しいとは言えないようだが、私は『こころ』と『明暗』の次に好んでいる。

 「風呂の後」には、大学を出て捗々しくない就職活動に疲弊している田川敬太郎と、様々な冒険譚で敬太郎の興味をひいている経験豊富な社会人森本とのやりとりが描かれる。しかし、森本は「停留所」以降は出てこない。母子で暮らす須永市蔵という裕福な友達が登場する。敬太郎が須永や須永の縁者たちと交わり、様々な話の聞き役を受け持ちながら、「松本の話」まで進行するのである。

 そこで問題となるのが、冒頭に「風呂の後」が配されていることの意味だ。この章(短編)は、何のために存在するのか。ここには大きな意味がある。まず「風呂の後」がどんな内容なのか、確認しておきたい。

(1)敬太郎が就職活動への嫌気から麦酒を飲み、当分休養することに決めて寝る。夜中から十時過ぎまでの間に計四回、目を覚ます。
(2)風呂へ行く。同じ下宿に住む「非凡の経験に富んだ平凡人」森本と偶然会う。普段は新橋の停車場で働いている森本の紹介。かつて結婚し、子供を失っていたことも明かされる。「餓鬼が死んで呉れたんで、まあ助かったもんでさあ。山神の祟には実際恐れを作(な)していたんですからね」
(3)敬太郎は森本の冒険譚を聞くために一緒に風呂から帰る。想像好きな敬太郎の略歴の紹介。「遺伝的に平凡を忌む浪漫趣味の青年」である敬太郎は、電車で乗り合わせた女や散歩の道すがら行き会う男を見るだけで、「悉く尋常以上に奇なあるものを、マントの裏かコートの袖に忍ばしていはしないだろうかと考える」性質である。
(4)敬太郎の部屋で酒を飲む。森本は「あらゆる冒険は酒に始まるんです、そうして女に終るんです」と語る。敬太郎は森本に「今まで遣って来た生活のうちで、最も愉快だった」話を求める。
(5)酔っ払った森本は便所に行くが、そのまま自分の部屋に戻って寝てしまう。敬太郎が起こしに行く。森本は謝り、敬太郎の部屋に行く。
(6)森本が「世界に比類のない呑気生活の御話」を聞かせる。
(7)敬太郎はその後、森本と話す機会を得ない。そんなある日、突然森本が失踪し、家賃を滞納させたまま大連へ行く。
(8)やがて森本の部屋に新しい住人が入る。荷物は処分されたようだが、森本が愛用していた、蛇の頭の彫り物がついた洋杖は傘入れに残っている。
(9)敬太郎は職を得るために内幸町へ行くが留守を食らい、電車で引き返す。その車内で、「何方かと云えば粋な部類に属する型」の女が赤ん坊をおぶっているのを見て、女は「黒人(くろうと)だか素人だか分らない」、赤ん坊は「私生児だか普通の子だか怪しい」と考え出す。
(10)森本から敬太郎に手紙が届く。大連の電気公園で働いているらしい。自分が大事にしている梅の盆栽と洋杖は敬太郎に進上すると書かれている。

「風呂の後」の再現

 「風呂の後」の事象や構造は、「停留所」以降、形を変えて再現される。

 私が最初に引っかかったのは、(5)で敬太郎の期待が背かれ、森本が自室に戻ってしまう不自然とも言える流れだが、これは「停留所」と「報告」で、敬太郎が当然会えるものと思っていたはずの人物(田口や松本)に会えず、出鼻をくじかれる場面と重なる。端折られている森本の冒険譚(6)は言うまでもなく「須永の話」で繰り広げられる須永の長口舌、森本の大連行き(7)は須永の一人旅、森本からの手紙(9)は「松本の話」での須永の手紙と対応関係にある。

 須永の叔父で高等遊民を以て任ずる松本の娘の死が描かれる「雨の降る日」は、森本の子の死(2)によって、そして須永が背負っている宿命は、敬太郎が見ず知らずの母子に対して行う推理(9)にすでに暗示されている。敬太郎の探偵趣味(3)は「停留所」で発揮され、酒の話(4)は、「須永の話」に出てくる酒と酔いの話に結びつく。須永は「芳烈な一樽の清酒を貰っても、それを味わい尽くす資格を持たない下戸として、今日まで世間から教育されて来た」青年であり、「酒に棄てられた淋しみの障害」を自覚している。

四度の目覚め

 冒頭、敬太郎が麦酒を飲んで寝て四度眼を覚ます理由(1)が逐一説明されているのも、占いが重要な役割を果たす小説という前提で読むと興味深い。

「一度は咽喉が渇いたため、一度は夢を見たためであった。三度目に眼が開いた時は、もう明るくなっていた。世の中が動き出しているなと気が付くや否や敬太郎は、休養々々と云って又眼を眠ってしまった。その次には気の利かないボンボン時計の大きな音が無遠慮に響いた。それから後はいくら苦心しても寝付かれなかった」

 これを一種の暗示とみなすなら、一度目は敬太郎が森本の冒険譚を渇望している状態と重なる。二度目は田口によって探偵仕事を依頼され、「本当の夢」のような体験をすることを指し、三度目は須永から聞きたい話を聞き出し、他人の人生の動きを意識することを指す。

 そして寝付けなくなるきっかけとなる四度目は、「松本の話」が突如終わり、敬太郎がすっきりしない気持ちでドラマの外に投げ出され、聞き手としての役割を終えることを意味する。結末で、敬太郎は「大きな空を仰いで」、劇の行く末に思いを馳せる。これは何度も「黒い空」を仰ぎながら謎めいた探偵行為をした数ヶ月前の出来事と対応関係にある。空はもはや黒くなく、見通せる状態にある。敬太郎はさまざまな話を聞き出し、彼の立場では聞くべきではない秘密まで知り、謎を明らかにしたのだ。あとは成り行きを見守るほかないのである。

森本が彫った蛇

 「風呂の後」を主題とするなら、その後は主題の分散と循環と変奏である。全編を大きく貫いているのは、森本が置いていった蛇の彫り物(8)がついた洋杖にほかならない。「胴から下のない蛇の首」は、森本自身が竹を伐って彫ったものである。「停留所」にはこのように書かれている。

「森本の二字は疾うから敬太郎の耳に変な響を伝える媒介となっていたが、この頃ではそれが一層高じて全然一種の符徴に変化してしまった。元からこの男の名前さえ出ると、必ず例の洋杖を聯想したものだが、洋杖が二人を繋ぐ縁に立っていると解釈しても、或は二人の中を割く邪魔に挟まっていると見傚しても、兎に角森本とこの竹の棒の間にはある距離があって、そう一足飛びに片方から片方へと移る訳に行かなかったのに、今ではそれが一つになって、森本と云えば洋杖、洋杖と云えば森本という位劇しく敬太郎の頭を刺戟するのである」

 このように書かれることで、読者は敬太郎が手にし続ける洋杖を、森本という人物の符徴、そして森本が登場する短篇「風呂の後」の符徴として認識することになる。この蛇は、長話をする須永に「洋杖の効果がありゃしないか」と言わせるほどの力を発揮する。「松本の話」で、松本(彼もまた「報告」で洋杖に興味を示していた)が「市蔵という男は世の中と接触する度に内へとぐろを捲き込む性質である」と言い出すのも、洋杖の効果だろう。

 蛇のように相手に絡みつき、聞き役を務めた敬太郎は、最後の「結末」で、ドラマを眼前にしながらも「遂にその中に這入れなかった」ことに物足りなさを感じ、同時に仕合わせを感じる。その際、「彼は物足らない意味で蛇の頭を呪い、仕合わせな意味で蛇の頭を祝した」。どこまでも蛇である。畢竟、この作品の構造自体が洋杖のようなもので、森本自身が出てくる「風呂の後」が「胴から下のない蛇の首」であり、「停留所」から後が、その下に長くのびている胴体の部分なのである。
(阿部十三)


[参考文献]
蓮實重彦『夏目漱石論』(青土社 1978年10月)
工藤京子「変容する聴き手」(『日本近代文学』 1992年5月)
前田愛『都市空間のなかの文学』(筑摩書房 1992年8月)
柄谷行人『新版 漱石論集成』(岩波書店 2017年11月)


タグ