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ヨシフ・ブロツキー 時こそが神なのではないか

2018.10.20
 「時こそが神なのではないかという考えに、ぼくは常に執着していた」とはロシア出身の詩人ヨシフ・ブロツキーの『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』に記された言葉である。
 時こそが神である。その前提で戯曲『大理石』を読むと、「おれたちにとってただ一人の観客は、時間なんだ」や「自分を時間に似せたいと本当に思っている」といった台詞に深い意味が加わる。劇の最後に、登場人物のトゥリウスは時間の実体をこのように言い表す。

「時間というのはな、プブリウス、灰色をしてるんだ......北国の空みたいに......それとも、北国の波みたいに......」
(ヨシフ・ブロツキー 『大理石』)

 これはブロツキーが自らを時間に似せて祖国を思いながら書いたものだ。自伝的エッセイの『レス・ザン・ワン』で故郷レニングラードについて「この地上でもっとも美しい街。果てしない灰色の空が川の上に覆いかぶさっているのと同様に、果てしない灰色の川が街のはるか彼方までを覆っている」と書いていることからも、そのように指摘できる。

 ブロツキーは1940年にレニングラードで生まれ、15歳の時に学校を去り、詩を書き始めた。1964年、共産主義にとって有害な徒食者とみなされて裁判にかけられ、5年間の強制労働を命じられたが、図らずもその裁判記録によってソ連国外で注目され、多くの文学者が抗議し、1年半ほどで釈放された。アメリカに亡命したブロツキーは大学の教壇に立つ傍ら、詩や評論を発表し、1987年にノーベル文学賞を受賞。ソ連崩壊の5年後、1996年に亡くなった。
 ノーベル賞受賞講演は『私人』というタイトルで出版された。文庫本サイズで30ページ程度だが、これは分厚い思想書よりも多くのことを我々に伝え、教え、感じさせる書だ。全体主義に与せず、一私人として生きた詩人の見識は、繰り返し読むに値する。かつて俳優の三國連太郎は、これを長年「いつも手近に置いてきた」愛読書として紹介していた。

「思想を押しつけられることを徹底的に嫌い、『私』を貫こうとする意思が痛いほど伝わる。『専制国家における殉教者や人心の支配者となるよりは、民主主義における最低の落伍者になったほうがいい』。最初のページでこの言葉に出合って衝撃を受け、思わず赤ペンで線を引いた」
(三國連太郎 こころの玉手箱『日本経済新聞』2006年8月11日夕刊)

 文学、とりわけ詩は、人間と極めて私的な関係を結ぶものだとブロツキーは語る。それは全体主義に対して「皆と違う」経験をさせるものであり、歴史上の大枠でみれば一時的に制限されたものにすぎない国家の政治制度や体制とは異なり、真の意味で恒久的なものである。人間は自分自身の人生を生き抜くべきであり、同語反復的な人生、「歴史の犠牲」という栄誉ある別名で知られる運命を避けなければならない。そのために文学は人間に手を貸してくれる。
 しかし実際のところ、全体主義に取り込まれないようにするためには、支配者、政治家がどういう人物なのか見抜く力も必要である。そこでもブロツキーは文学が有益であると語る。

「もしもわれわれが支配者を選ぶときに、候補者の政治綱領ではなく読書体験を選択の基準にしたならば、この地上の不幸はもっと少なくなることでしょう。そう信じて疑いません。われわれの支配者となるかもしれない人間にまず尋ねるべきは、外交でどのような路線を取ろうと考えるかということではなく、スタンダール、ディケンズ、ドストエフスキーにどんな態度をとるかということである。私はそう思います」
(ヨシフ・ブロツキー 『私人』)

 文学作品をきちんと読み、どう受け止めるかが問われるのである。そんなことはない、政治家に求めるのは経済と外交の政策だと言う人もいるに違いない。しかし私は、日本に限って言うなら、古の和歌も、夏目漱石や芥川龍之介すらも読んだことがない、あるいは読んでも何も感じない人間は、日本という国を背負って立つに値しないと考える。文学を解するということは、感受性の問題だけでなく、日本語を解し、日本語を尊び、国の文化を守る精神の問題にも関わってくるからだ。

 さて、時こそが神ではないかと考えていたブロツキーだが、そんな彼が時間と同義のものとして捉えていたのが水であり言語である。水も、言語も、たしかに長大な時間の流れを感じさせる。そして「時間には何でもあるが、場所だけはない」という『大理石』の台詞の通り、一定の場所にとどまるイメージもない。
 しかし一方でこの詩人は、時間と同義の個体を自分の作品に何度も登場させていた。戯曲の題にもなった大理石である。
 長い歴史を経ても原型を保ち、なおかつ神聖さをたたえている大理石は、古代と現代、永遠と一瞬とが凝固しつつ脈打っている象徴的な「場所」であり、ブロツキー的な時間、神のイメージと重なる。『ヴェネツィア』にも書かれているように、この石に浮き上がる模様は静脈である。それはこの石の中に、長大な時間があることの証なのだ。ブロツキーはその脈動を感じるだけで時空を超えることができた。ローマ帝国の時代も、彼にとっては遠い過去ではない。

 ブロツキーの作品は比較的平易な言葉で綴られているので読みやすい。すでに書いたように『私人』は大勢に向けた受賞講演だが、ブロツキー風に言えば、彼の言葉は「人間に一対一で話しかけ、仲介者ぬきで人間と直接の関係を結ぶ」ような私信的性格を持っていて、日本人の感性にもフィットしやすい。そういえば、時間に神を見出す心のありようも、どことなく日本的で、私には親しいものに感じられる。ブロツキー自身は芥川龍之介の作品を好み、作中にその言葉を引用することもあった。日本との親和性が高い人なのかもしれない。
(阿部十三)


[参考文献]
ヨシフ・ブロツキー著・川村二郎/小平武訳『集英社版 世界の文学37 現代詩集』(集英社 1979年2月)
ヨシフ・ブロツキー著・沼野充義訳『大理石』(白水社 1991年3月)
ヨシフ・ブロツキー著・金関寿夫訳『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』(集英社 1996年1月)
ヨシフ・ブロツキー著・沼野充義訳『私人 ノーベル賞受賞講演』(群像社 1996年11月)
ヨシフ・ブロツキー著・たなかあきみつ訳『ローマ悲歌』(群像社 1999年3月)
三國連太郎「こころの玉手箱」(『日本経済新聞』 2006年8月11日夕刊)



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