文化 CULTURE

屈原の天問

2018.12.22
 『楚辞』は、前漢の学者劉向が楚の詩を十五編集め、それに自身の詩を加えたものである。その後、後漢の王逸が『楚辞』に注釈を付し、自身の詩を加えて『楚辞章句』を編纂した。この詩集で最も大きな存在感を示しているのが、屈原である。

 懐王に仕える政治家であった屈原は、同輩の嫉妬と憎悪の対象となり讒言され、追放された。追放されている間(紀元前313年頃か)、讒言を恨み、憂愁に沈む中で書いたとされるのが有名な『離騒』だ。「離」は「遭う」、「騒」は「憂愁」の意である。

 『史記』によると、屈原は聡明で外交の手腕にも長けていた。そんな忠臣を失った懐王はまんまと秦の張儀の罠にかかり、斉との同盟を断絶し、斉の援助なしに秦と戦って大敗することになる。屈原がいればまた違う歴史が築かれていただろう。

 その後、屈原は再び起用されて懐王に仕えたが、懐王は屈原よりも自分の末子・子蘭の言うことに耳を傾け、秦に出向いて抑留され、悲惨な最期を遂げた。後を継いだ頃襄王もやはり弟の子蘭を重用し、子蘭と意見を異にする屈原はまたも讒言され、追放された(紀元前293年頃か)。遠方の地・江南に追いやられた屈原は、楚の首都である郢が秦に奪われたことを聞くと、絶望して石を懐き、汨羅江に身を投じたという。没年については諸説あるが、命日は5月5日と伝えられる。

 王逸によると、追放の身となった屈原は、山沢を彷徨している時、楚の先王や公卿の祠堂の壁に天地山川神霊および古の賢聖や怪物などの画が描かれているのを見て、『天問』を岩の壁に書いた。つまり画賛(当時は四言四句一章の詩形であった)なのだが、純粋な画賛ではない。我が身の不幸を嘆き、衰えゆく国の有様を悲しむ愛国者の屈原が、画に触発されて、普段から不思議に思っていたこと、真相を知りたいが誰にも答えられないであろうことを書き連ねた印象が強い。

 『天問』の作者については諸説あるが、やはり屈原だろう。その内容は、宇宙、人生、政治、怪異、伝説、歴史、故事などに関する172もの疑問を天に問うものだ。それは不条理の奈落に突き落とされた屈原の内面を映したものであり、次々と発せられる疑問の向こう側に見えるのは、人知を超えた歴史の大海の中にあるという自覚であり、その海中で塵のように消えてゆこうとしている一人の男の泣きたくなるような気持ちである。ほかに作者を想像することは難しい。
 全編は十段に分けられる。

 第一段 主として天文に関する疑問
 第二段 治水伝説に関する疑問
 第三段 地上の怪異に関する疑問
 第四段 夏代の故事に関する疑問
 第五段 奇怪な伝説に関する疑問
 第六段 虞・夏・殷三代の婦人関係の説話に関する疑問
 第七段 殷朝及びその祖先の伝説に関する疑問
 第八段 周朝の故事及び殷の紂王に関する疑問
 第九段 周の祖先と文王・武王の故事に関する疑問
 第十段 雑事と楚の故事を述べ、諷諫で結ぶ
 ※第十段を二つに分け、全十一段とすることもある。

 全編、なぜどうしての連続である。まず疑問の対象とされるのは、地球のはじまりだ。

 曰遂古之初
 誰傳道之
 上下未形
 何由考之


 曰く、遂古(すいこ)の初(はじめ)、誰か之を傳へ道(い)ふ。上下(しょうか)未だ形れず、何に由って之を考ふ。
(太古のはじめのことを、誰が言い伝えたのか。天地がまだ形成されていないのに、何によってそれを考えたのか)

 第二段では、古の治水伝説に疑問を投げかける。

 不任汨鴻
 師何以尚之
 僉曰何憂
 何不課而行之


 鴻を汨(おさ)むるに任(た)へざるに、師(もろもろ)何を以てか之を尚(あ)ぐる。僉(みな)曰く、何ぞ憂へんと。何ぞ課(こころ)みずして之を行(や)る。
(鯀は洪水を治める才能がないのに、皆は何故に彼を推挙したのか。皆が心配無用と言ったとはいえ、堯は何故試みもせずに彼を派遣したのか)

 鯀は治水に失敗した罪人(四罪の一人)とされ、その子・禹は治水の神とされる。しかし屈原は、鯀を先入観なしに評する立場をとり、第五段ではなぜ鯀の悪名が天下に満ちたのか(良いこともしたではないか)と問うている。

 第三段では、世に伝わる怪異に疑問が及び、「どこに冬暖かい国があるのか。どこに夏寒い国があるのか。どこに石の林があるのか。何という獣が喋るのか。どこに不死の国があるのか。太陽の照らさない国はどこにあるのか。九頭の雄蛇はどこにいるのか」などと問う。伝説や迷信が今よりもずっと現実味を帯びていた時代に、懐疑的とも言える立場をとっているのである。

 これらはほんの一例にすぎない。こうした問いがずらりと並び、延々続くのだ。注目すべきは、第一段、第三段、第五段以外、ほぼ人為的なことに関する疑問と感嘆で占められている点である。つまり、夏、殷、周と辿り、それぞれの時代に起こった「今となっては知りえないこと」を記すことで、あらゆる謎や矛盾をのみ込む人間の歴史というものを浮かび上がらせているのだ。

 屈原がどのような画に触発されて、ここまでおびただしい問いを噴出させたのかは分からないが、心の根底に「なぜ自分のようにすぐれた家臣が追放されたのか、なぜ愚者が高位を貪っているのか」という疑問があり、その怒り、悲しみ、もどかしさが絶望と紙一重の大きなエネルギーになっていたことは間違いない。有名な「漁父辞」でも、屈原の心境は「世を挙げて皆濁れるに、我独り清めり。衆人皆酔へるに、我独り醒めたり」と記されている。

 『天問』を締めくくる最後の五章は、第十一段とみなされることもあり、解釈が難解なことで知られる。そのうちの一章をここに挙げる。

 悟過改更
 我又何言
 呉光争國
 久余是勝


 過ちを悟りて改更(かいこう)せば、我又何をか言わん。呉光(ごこう)國を争ひて、久しくして余(われ)に是れ勝てり。(楚王が過ちを悟って非を改めるなら、私としては何も言うことはない。昔、呉王闔閭が楚と争い、長い戦いの末、楚に勝ったことがあった)

 屈原は楚王に過ちを悟ってほしい、過去の失敗に学んでほしいと期待しているのだが、楚王がもし懐王のことを指すならば、『天問』は懐王に追放された際に書かれたことになる。もし頃襄王のことだとすると、晩年の作ということになる。「呉光」を引き合いに出していることから、秦と戦をしようとしている懐王に向けられた言葉とみるのは早計だろう。頃襄王も秦との外交に苦しんでいたのだ。私は最初にこれを読んだ時、疑問を噴出させるその勢いから若い頃の作ではないかと感じたが、今は逆で、人生を終える前に自分の中に溜まっていたものを放出させた最後の自己表現であったように見える。

 『天問』が書かれてから数千年が経つが、屈原が問うたことはほとんど答えが見つからないままである。今日、もし歴史に詳しい人が新たに『天問』を書くとしたら、一体いくつ疑問が並ぶことだろう。日本だけに限っても、歴史上なぜそんなことが起こったのか不明確で、しかも今となっては誰にも答えられないような疑問の数は、千をくだらないのではないか。
(阿部十三)


[参考文献]
青木正兒著『新譯 楚辞』(1957年9月 春秋社)
藤野岩友著『漢詩大系第三巻 楚辞』(1967年4月 集英社)
星川清孝著『新釈漢文大系第34巻 楚辞』(1970年9月 明治書院)



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