文化 CULTURE

仁木悦子 推理小説というロマンの花

2014.07.19
素人探偵、仁木兄妹の登場

 仁木悦子の推理小説には、謎解きの面白さや緊迫感だけでなく、微笑ましい明るさ、軽快さがある。おどろおどろしさで背筋をぞくぞくさせる作風とは一線を画し、端正な文体で物語をテンポよく進行させ、しこりを残さず、あたたかい余韻で読者を包み込む。「探偵役」を務める人物たちも、犯罪者を捕らえてやるという正義感より、隠された謎を知りたいという好奇心が旺盛で、恐怖に気圧されることがない。ここまで朗らかな本格推理小説は、『猫は知っていた』で仁木悦子が江戸川乱歩賞を受賞する1957年まで日本にはなかったはずである。このデビュー作に登場する仁木雄太郎と悦子の兄妹探偵コンビが、日本の推理小説界に新風を吹き込んだといっても過言ではない。

 仁木悦子の本名は大井三恵子。1928年に生まれた仁木は、4才の時に胸椎カリエスに罹り、寝たきり生活を送っていたが、年の離れた次兄の大井義光により教育を施され、やがて童話を書き始める。その後、河出書房のミステリ募集に向けて『猫は知っていた』を執筆し、入選。同社の財政難により出版は中止となるが、1957年に開催された第3回江戸川乱歩賞(一般公募としては初)で同作品が受賞。異色の経歴が注目を浴び、半年余りで13万部を突破するベストセラーに。仁木のルーツが海外の推理小説ばかりだったという点も、当時としては新鮮だった。この『猫は知っていた』が、翌年刊行された松本清張の『点と線』と共に、日本の本格推理小説の読者を劇的に増加させたのである。

 植物学に没頭している頭脳明晰な仁木雄太郎がシャーロック・ホームズだとすれば、ピアノ教師を目指す音大生の悦子はワトスンである。万事に首を突っ込みたがる悦子は、事件が起こる度にわくわくしている。『猫は知っていた』ではいくらかデリカシーを持っているが、『刺のある樹』(1961年)ではそれも消え去り、「私の胸がわくわくした。事件と聞いては、じっとしていられない。どんな事件だろう? 殺人事件だったら、すてきなんだけど」となる。無論、悦子は自分の不謹慎さを自覚している。それでも好奇心を抑えられない。いわばこの軽さが作品のトーンを明るくし、物語が恐怖一色に染まるのを防いでいる。もし、ここから悦子がいなくなって雄太郎だけになったら、泡のぬけた炭酸水のようになり、特殊性が失われるだろう。悦子の存在の大きさが分かるというものだ。
 残忍な事件が起こっているのに、冗談もいえば、わくわくもする。刑事でも探偵でも記者でもなく、事件に直接関係があるわけでもない部外者なのに、関係者のプライバシーに立ち入ろうとする。そんな仁木兄妹は、現実世界にいたら疎まれる存在かもしれない。が、実際に起こった殺人事件が、自分自身や自分の大切な人たちとは無関係なものである場合、世間の反応は好奇心の方向へ傾きがちである。仁木兄妹は、それがデフォルメされた存在なのだ。『二つの陰画』(1964年)には、もっと知りたがりで陽気な櫟夫妻が登場するが、彼らの差し出がましい言動をみていると、犯人にすら同情したくなる。

 作者の名前と登場人物の名前が同じということもあり、少し混乱を招くかもしれないので、仁木兄妹のネーミングについて簡単に説明しておく。そもそも語り部である「仁木悦子」を自分のペンネームにしたのは、「一人称で書いてあるのだから、作者にもその名をつけておいたら、ほんとにこの女子学生が書いたように見えておもしろいだろう」という思いつきからだという。深い意味があるわけではなく、軽い気持ちで署名したのである。また、『猫は知っていた』の執筆当初、兄の名前は「仁木隆太郎」であったが、江戸川乱歩の息子が「隆太郎」だと知り、雄太郎に変えられた。「同名では失礼にあたる」と配慮してのことである。もっとも、当時は自分が江戸川乱歩賞を受賞するとは夢にも思っていなかったらしい。

 この仁木兄妹が暮らしている宏壮な邸宅は、血縁でも何でもない金持ち夫婦の家である。夫婦が長期のヨーロッパ旅行に出ている間、何百種類もあるサボテンの世話をすることを条件に、留守番をしているのだ。ただ留守番するだけでなく、自由に車(黒の1956年型ルノー)を乗り回す許可まで得ている。植物好きの仁木雄太郎には何の苦にもならない条件である。ところで、こういう設定以上に私にとって興味深いのは、サボテンのための豪華な温室が、どことなくレイモンド・チャンドラーの『大いなる眠り』に出てくるスターンウッド邸の温室を想起させる点である。若い頃、仁木悦子(この場合、大井三恵子といった方がよいかもしれない)は『大いなる眠り』を読んで大きな衝撃を受けたようだが、その影響がここにあらわれている。


長編作品のこと

 仁木悦子は『猫は知っていた』、『林の中の家』(1959年)、『刺のある樹』、『黒いリボン』(1962年)などで仁木兄妹を活躍させ、緻密な構成と明るい作風で人気作家となったが、私見では、この兄妹シリーズの最高傑作は『猫は知っていた』であり、ほかは謎解きの仕方や犯人探しの詰めの部分が少し飛躍していて、展開にやや甘いところがみられる。
 推理作家としての技量に関していえば、仁木兄妹シリーズから離れた長編の方が、ストレートに発揮されているように思われる。「一個の人間の中に、あるいは社会の複雑な機構の中に、存在する秘密めいたもの、まっとうでないものを探り出し掘り出し、自分のなっとくの行くまで追及してみたいという、猟犬のような本能」を持つ新聞記者、吉村駿作が活躍する『殺人配線図』(1960年)、印刷所の下請けをしている江見次郎がひょんなことから殺人事件に巻き込まれる『枯葉色の街で』(1966年)、哀愁を帯びた探偵三影潤のクールさとやさしさが印象的な『冷えきった街』(1971年)、お先真っ暗な状況へと追い込まれた平凡な篠田親子が奮闘する『灯らない窓』(1974年)、翻訳事務所の経営者、砂村朝人が難事件を解決する『青じろい季節』(1975年)、推理小説マニアのグループが探偵役を務める『陽の翳る街』(1982年)は、事件を追う者の心理がこまやかに描写されていて、ロマンティックな推理小説として楽しめるし、人生ドラマを感じさせる文学としても味わい深いものがある。

 この中で設定が特にユニークなのは、『枯葉色の街で』だ。主人公は、職を転々とし、今はガリ版の原紙切りをしている江見次郎。ある日、次郎は死んだ弟によく似た男と街角でぶつかる。帰宅した次郎は、ジャンパーのポケットに見覚えのない財布が入っていることに気付く。先ほどぶつかった男の仕業である。おそらく男はスリで、何者かから盗んだ財布を次郎のポケットに入れて逃走したのだろう。スリが亡き弟に似ていたこともあり、次郎はその財布を警察へ届ける気になれない。そこで、持ち主を探すために、財布に入っている8枚の名刺の人物を訪ねるのだがーー。初めて読んだ時は、こんな強引な始まり方からどんな話が紡がれるのやらと不安に感じたものだが、次郎の恋人の敦子、殺された画家の無邪気な娘ミチルといった登場人物が魅力的で、それこそわくわくしながら読めた。謎解きも面白いが、人間関係も面白い。楽しさ、愛らしさ、悲しさ、侘しさが同居している。

 『灯らない窓』の設定は、おそらく仁木悦子が仕掛けた最もハードな「絶体絶命」の状況である。しかし緊迫感と和みが良いバランスで保たれている。妻が殺人容疑で逮捕された後、妻の不貞疑惑にも悩まされ、憔悴している篠田久。小学6年の息子で、ポジティブ思考の篠田進。いずれも凶悪で狡猾な犯人の企みを暴くには力不足にみえるが、思考力と体力をフル稼働させ、犯罪の糸をほぐしていく。そのプロセスとなめらかな語り口に感嘆させられる長編だ。なお、こうした絶体絶命の状況から逆転するパターンは、短編「蒼ざめた時間」(1983年)に踏襲されている。

 最後の本格長編『陽の翳る街』は最高傑作とまではいえないが、集大成的作品といってよいだろう。「推理小説が三度の飯より好き」という男女4人のグループが「モザイクの会」を結成。ミステリについて議論したり、情報交換を行ったり、雑誌を発行したりしている彼らは、ある日偶然殺人事件に遭遇し、不謹慎とは思いながらも、好奇心を波立たせて調査を始める。しかし、グループのうちの1人がその事件に関わっているらしいということが分かると、もはや興味本位の態度ではいられなくなり、行動も必死の様相を帯びてくる。平たくいえば、好奇心のツケを払う羽目に陥るのだ。男女の淡い恋、生き生きとした街の描写、入り組んだ人間関係、仲間同士の思いやりなど、仁木文学のエッセンスもたっぷり盛り込まれている。さらに、『冷えきった街』、「暗緑の時代」(1976年)、「緋の記憶」(1977年)などでおなじみの三影潤がかつて籍を置いていたニュー・ワールド総合探偵社も登場する。出来すぎた人物相関図はご都合主義的にみえなくもないが、無縁と思っていた人間同士が思わぬところで繋がるのはよくあることだし、その辺の雰囲気の醸成もうまくいっている。犯人探しに関しては、忌憚なくいって、わりと早い段階で見当がつく。それでも成り行きが気になり、楽しく読み通すことが出来るのは、いかにも仁木らしい「軽み」とロマンティックな世界が心地よいからである。後味の良さも抜群だ。

 ある作品に登場した脇役が、別の作品で主役として活躍するケースもある。例えば、「月夜の時計」(1959年)に出てくる峰岸老警部は、『猫は知っていた』で仁木兄妹をサポートする人物であり、「一匹や二匹」(1981年)で殺人事件の核心に迫る子供は、『二つの陰画』の素人探偵・櫟夫妻の息子であり、「縞模様のある手紙」(1983年)で活躍する砂村絹子は、『青じろい季節』で砂村朝人と恋に落ちる小菱絹子である。『青じろい季節』の絹子は過去を持つ女だったが、どうやらこの2人は無事結婚したらしい。こういうファン・サービスも、仁木文学の魅力である。


子供たちの物語

 『猫は知っていた』以降、手術を受け、車椅子で生活出来るようになった仁木は、マイペースで執筆活動を続けた。私生活では翻訳家の後藤安彦と結婚。それを反映し、フィクションの中の悦子も、東都新報社のヘリコプター・パイロットである浅田史彦と結婚し、主婦の素人探偵として活躍しはじめる。ちなみに東都新報社は「みずほ荘殺人事件」(1960年)や『殺人配線図』の主人公、吉村駿作の勤め先でもある。東都新報社という社名は、長編『消えたおじさん』(1961年)などを刊行した東都書房に由来しているのだろう。

 その『消えたおじさん』や先にふれた『灯らない窓』を筆頭に、仁木作品には子供を主人公に据えた作品が沢山ある。童話作家として経験を積んだ成果とでもいうべきか、子供を描写する作者の筆致は実に生き生きしている。その目線は常にあたたかく、読者を和ませる。『消えたおじさん』は、新聞配達の少年が行方不明になった仲良しのおじさんを探しまわる冒険スリラーで、仁木の「子供もの」の代表作だ。小学5年生の弟が殺人容疑で逮捕された兄の無罪を証明しようとする「灰色の手帳」(1962年)も好編。これらに登場する少年たちは、自分の大切な人を守るために己の非力さを顧みることなく命がけの行動に出る。推理小説というより冒険活劇の色合いが濃く、子供と大人が一緒に楽しめる内容になっている。ほかにも11歳の子供が母親の無罪を証明しようとする「かあちゃんは犯人じゃない」(1958年)、コーネル・ウールリッチ作「非常階段」の設定をアレンジした「穴」(1967年)、少年少女の4人組が田舎で起こった事件(幼児監禁、麻薬密輸、通貨偽造)を解決する「口笛たんてい局」(1967年〜1968年)、捨て猫の飼い主を探そうと一生懸命な子供が殺人事件に巻き込まれる「一匹や二匹」などなど、この分野には一読に値する作品が少なくない。

 仁木がこういった作品を書いたのは、単に子供好きだからではない。子供を主人公にした健康的で面白い小説が少ないと感じたからである。『消えたおじさん』のあとがきにもあるように、仁木は「どうして今の日本には、子供たちから歓迎される痛快で健康な少年少女小説が生まれないのだろう?」という疑問を抱いていた。このままでは子供たちは活字の並んだ本に興味を示さなくなり、漫画にばかり夢中になってしまう。そういう状況になるのを危惧し、自ら「子供もの」を書いたのである。つまり、文学の潮流に対する一種の反骨精神から生み出された産物なのだ。といっても、健康的なものばかりでなく、「うす紫の午後」(1978年)のように純粋すぎる狂気を描いた作品があることも付言しておく。


社会派として、ロマンの花を

 デビュー作『猫は知っていた』のタイトルから容易に想像出来るだろうが、仁木は愛猫家であった。「一匹や二匹」も猫のことである。これはさらりと書かれた印象のあるサスペンスだが、一方で、すぐに動物を捨てる人間たちを糾弾する作品という一面を持っている。「老人連盟」(1968年)は、居場所をなくした老人たちが公園で仲良くなり、殺人嫌疑のかかった若者を助ける話で、ここにも捨て猫や放し飼いにされた猫が何匹も出てくる。1979年、そういった猫を捕らえて殺す条例が作られると聞いた仁木は、いわゆる「ペット条例」に異議を唱える「自然と動物を考える都民会議」を組織し、デモを行った。

 仁木悦子は社会運動家であり、「自然と動物を考える都民会議」だけでなく、戦死した兄を悼む妹たちによる「かがり火の会」も結成、『妹たちのかがり火』の編集に携わった。そこに収められた「一冊の本」によると、長兄の大井栄光は東大理学部数学科を出た秀才で、クリスチャンだったが、徴兵され、1941年に少尉として戦死したそうである。母は栄光の手紙を一冊の本にまとめることにし、主な作業は東大心理学科の生徒だった次兄義光が行い、病床の三恵子(悦子)は浄書や校正を手伝った。しかし、この書簡集は反戦思想の書とされ、当局の怒りを買い、焼却処分を命じられたという。
 こうした体験が作家、仁木悦子の意識に影響を及ぼしたことは間違いない。その影響は、大人たちの都合に振り回される子供の姿となって、私たち読者の前に現れる。現実の子供はそこまで無邪気でも純粋でもないが、大人たちの罪深さを際立たせるために、仁木は子供を純粋に描くのである。障害児を犯罪に利用する大人の浅ましさを描いた「うさぎと豚と人間と」(1962年)は、その傾向が最も顕著な作品といえるのではないだろうか。

 社会的なメッセージを、伝わる人には伝わるレベルでさりげなく物語の内側にとけ込ませるのは、仁木作品の大きな特徴である。ただ、中には例外もある。直接的に戦争の傷跡そのものを題材にした「山のふところに」(1968年)だ。戦争中、村の若者たちを鼓舞して戦場に送り込んだ男、赤沢増太郎は、戦後出世して故郷にやって来る。目的は、工場建設のための土地買収である。しかしその晩、赤沢は死体となって発見される。ーーのんびりとした雰囲気の中、深い悲哀が滲む好編だ。
 「死を呼ぶ灯」(1975年)の主人公は、私立高校の物理教師、下畑逸夫。古道具屋でたまたま目についたアンティークの電気スタンドを衝動買いしたことがきっかけで、ある過去の秘密が明らかになる。珍しくミステリアスな雰囲気を漂わせて始まるが、埃を被った古い事件を暴いていくプロセスは明快そのものだ。この背景にあるのも、人間を狂わせる戦争である。これは私の好きな仁木作品のひとつであり、短いながらも充実した長編を読んだような満足感が得られる。

 ところで、仁木悦子は推理小説の展望についてどのように考えていたのか。『現代推理小説大系第15巻』の「ある無責任な対話」で、彼女は犯罪のトリックが「出尽したというのは事実でしょう」と語り、「これまでにあったトリックを新しい角度から取りあげて、読者が気がつかないような形で使うよりない」とした上で、次のように結んでいる。

「ずっと昔、佐藤春夫が『探偵小説は、ロマンチシズムという木の、豊富な枝の一つだ』という意味のことを言ったそうだけど、その枝の中に、さらに豊富なさまざまな枝が分れてできた、というのが今日の推理小説だと思うわ。たとえ社会派であっても、根本はやはりロマンチシズムから出たもので、枝はいくら豊富に分れてもいいから、それぞれの枝にロマンの花をより美しく咲かせるように努力したいものよね」

 1986年、仁木は腎不全のため亡くなった。今、どれくらいの人が仁木作品を読んでいるのかは分からないが、彼女が咲かせた美しいロマンの花は、見える人には見えているはずだ。
(阿部十三)


【関連サイト】
仁木悦子(書籍)
仁木悦子メモリアル

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