文化 CULTURE

『シンベリン』 シェイクスピアの祈り

2016.09.10
 ウィリアム・シェイクスピアの「ロマンス劇」は、上演史などを手がかりに、1608年から1611年頃にかけて書かれたとみられている。その4作、『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』には作品の傾向として似通った部分が多く、その点からも、一定の期間内に着手されたと考えるのは不自然ではない。

 主な共通項を列挙しておくと、まず4作品とも夫婦や親子が離ればなれになり、後に再会を果たす。超自然的な存在が登場する。秘薬、秘法、魔術を扱う人物によって救いがもたらされる。権力を持つ者が危機に陥ったり誤った判断を下したときも、忠臣や従者が正しい判断をして悲劇を免れる。美しく聡明な女性(妻、娘)がいる。海を渡るというプロセスがある。必ずしも悪党は制裁されず、許されることが多い。歌や音楽が求められる。そして、ハッピーエンドで終わる。

 これらの項目の中で、感動の再会劇を演じる夫婦、親子は以下のようになる。

・『ペリクリーズ』 ペリクリーズ(夫)、セーザ(ペリクリーズの妻)、マリーナ(ペリクリーズの娘)
・『シンベリン』 シンベリン(父)、グィディーリアス(シンベリンの息子)、アーヴィラガス(シンベリンの息子)、イモジェン(シンベリンの娘/ポステュマスの妻)、ポステュマス(イモジェンの夫)
・『冬物語』 リオンティーズ(夫)、ハーマイオニ(リオンティーズの妻)、パーディタ(リオンティーズの娘)
・『テンペスト』 アロンゾー(父)、ファーディナンド(アロンゾーの息子)


 ここからもうかがえるように、『シンベリン』の幸福な再会劇は、相関図的に手が込んでいて、最後の最後、怒濤のようにシンベリンのもとへ押し寄せる。これほど激しく、渋滞したハッピーエンドは、シェイクスピア劇の中でも異例と言ってよいだろう。凄惨な殺人連鎖で仰天させる『タイタス・アンドロニカス』とは対極にある終わり方だ。

[第一幕]ブリテン王シンベリンは、王女イモジェンと後妻の息子クロートンを結婚させようとしている。しかし、イモジェンは身分の低い、しかし人望の厚いポステュマスと結婚。怒ったシンベリンはポステュマスを追放する。
 ローマに来たポステュマスは、妻イモジェンを「フランスの女、イタリアの女以上」と絶賛したことで周囲の不興を買い、色男ヤーキモーに唆され、妻イモジェンの貞操が確かなものかどうか、賭けをすることになる。
 一方、シンベリンの王宮では、邪悪な王妃がイモジェンを殺害しようとして、機をうかがっている。侍医コーリーニアスに毒薬を持って来させたのも、イモジェン殺害のためだ。しかし賢明なコーリーニアスは、王妃がよからぬことを企んでいると見抜き、毒薬ではなく、一時的に仮死状態にするだけの秘薬を渡す。
 その頃、ヤーキモーは必ずイモジェンを口説いてみせると意気込んでシンベリンの王宮に現れるが、全く相手にされない。このままでは賭けに負けると悟ったヤーキモーは、悪知恵を働かせる。

[第二幕]大きなトランクの中に身を隠し、イモジェンの寝室に入り込むことに成功したヤーキモーは、寝ている彼女の腕から腕輪を抜き取り、胸元にあるほくろの位置を確認する。そしてローマへ帰ると、さもイモジェンを口説き落としたかのように武勇伝を語る。ポステュマスは絶望し、裏切った妻への復讐を誓う。
 シンベリンの王宮では、愚かなクロートンがイモジェンの歓心を買おうとするが、相手にされない。怒ったクロートンはイモジェンへの欲情をますますつのらせる。

[第三幕]シンベリンは王妃に焚きつけられ、ローマに年貢を納めることを拒否する。これによりローマとの関係が悪化する。さて、ポステュマスはというと、ブリテンに残っている忠実な従者ピザーニオに手紙を送り、愛の誓いを破った妻をミルフォードに連れ出して殺せという指示を与える。ピザーニオは混乱する。イモジェンが貞操を汚したとは信じられないのだ。
 ポステュマスは妻にも手紙を送り、「私は今ミルフォードにいる。どうかあなたの愛の導くままに行動してほしい」と書いていた。イモジェンは喜び、居ても立っても居られず旅立ち、ピザーニオもそれに従う。
 ここで、新たな人物が登場する。洞窟で暮らすベラリアス、グィディーリアス、アーヴィラガスだ。ベラリアスはシンベリンの元家臣で、あらぬ疑いをかけられて王宮から追放された過去を持つ。その際、激昂した彼は、乳母と結託し、シンベリンの息子グィディーリアス、アーヴィラガスを盗み出し、以来20年間、自分の子供として育ててきた。
 旅の途中、ピザーニオは堪えきれず、ポステュマスから届いた殺害指令の手紙をイモジェンに見せる。その内容に驚き、悲しむイモジェン。ピザーニオは一計を案じ、イモジェンに男装して、別人になりすまし、ミルフォードに来る予定になっているローマ皇帝の使者リューシャスに仕えることを勧める。そうすればローマにいるポステュマスの近くにも行けるだろう、と考えたのだ。イモジェンはすぐ行動に移し、ピザーニオはブリテンの王宮に戻る。彼は、その際、邪悪な王妃から「王の命を五度も救った妙薬」と言って譲られた薬をイモジェンに渡す。
 王宮に戻ったピザーニオは、クロートンに詰問され、ポステュマスの手紙を見せる。クロートンはイモジェンの操を強引に奪おうと、ポステュマスの上着をまとい、ミルフォードへ向かう。その頃、イモジェンは運命の糸に導かれるようにして、勇敢なグィディーリアスとアーヴィラガスと出会う。しかし、3人は兄妹であることをまだ知らない。

 こうして、ようやく劇の設定が整う。ここからドラマが驀進し、第四幕では薬を飲んだイモジェンが仮死状態になり、クロートンがグィディーリアスに殺される、という展開を迎える。仮死状態から目覚めたイモジェンは首のないクロートンの死体(上着はポステュマスのもの)を見て、夫が死んだと思い込み、絶望した状態のまま、偶然通りかかったリューシャスに仕えることになる。第五幕ではブリテンとローマとの間に戦争が起こり、ベラリアス、グィディーリアス、アーヴィラガス、ポステュマスが活躍し、シンベリンのもとで運命の糸がもつれんばかりになって毛糸玉のようになり、全員再会めでたしめでたしの大団円を迎える。このラストはかなり強引で、現代の感覚ではご都合主義に思えるが、同時に、何かハッピーエンドに取り憑かれたシェイクスピアの執念のようなものを感じずにはいられない。

 『シンベリン』は悲劇の世界観を持つ大逆転劇である。そのため、「悲喜劇」とも呼ばれる。危機的状況においても、不要な死は描かれない。捕らえられたローマ軍兵士も、その中にいるヤーキモーまでも、寛容の精神で許される。妻の貞操を賭けるくだりは、『デカメロン』の2日目、第9話を下地にしているが、『デカメロン』の悪党が無残に処刑されるのに対し、ヤーキモーは呆気なく制裁を免れる。

 私が常々この劇を読んで思うのは、劇の冒頭で紳士が語るポステュマスの評判と、実際のポステュマスの差異である。紳士はポステュマスについて、「どんなにすぐれた男を連れてきても彼とくらべればどこか劣っているはずだ。一人の男にあのような美しい姿とりっぱな心が授けられた例は彼をおいてほかにはあるまい」と言うのだが、実際のポステュマスは、『デカメロン』に登場する夫の分身であり、妻の貞節をあちこちで誇らしげに賛美し、挙げ句その貞操を賭け、狡猾な悪党の虚言を信じ込み、罪なき妻の殺害を従者に命じるような人間である。しかも最後の場面で、男装したイモジェンが「あなた」と言ったときも、妻は死んだものだと信じ込んでいるポステュマスは、相手の正体を見破れず、「なんの猿芝居だ? ばかにするな、小僧、お前の役はぶっ倒されることだ!」と感情的になって殴る。

 明らかに、シェイクスピアは冒頭の紳士の言葉をあくまでも評判として扱い、それとは異なる形で実像を描いている。本来許されない嘘をついたヤーキモーが救われるのは、こうしたポステュマスの性格的欠陥とのバランスとみてよい。ヤーキモーがイモジェンの寝室に潜入する場面は、かのルクレティアやフィロメラの名前が出てきて、観客に強姦を想起させ、最悪の事態を予期させるが、ヤーキモーはそこまではしない。

 女の貞操を賭ける話は、モーツァルトのオペラ『コジ・ファン・トゥッテ』(台本はダ・ポンテ)にも出てくる。これまた舞台はイタリアだ。オペラの惨憺たる結末を知る者には、『シンベリン』のイモジェンが示す一途な愛の深さ、純粋さ、勇敢さは、あまりにも美しく、尊いものに思える。今でもそのイメージは保たれているようで、海外では「イモジェン」という名前の女性をしばしば見かける。ただし、イモジェンの表記については「イノジェン」の誤植だとする説もある。

 それにしても、「ロマンス劇」の創作年をシェイクスピアのキャリア後期とするならば、なぜその時期にこんなハッピーエンドを繰り返し書いたのだろうか。フランシス・ボーモント、ジョン・フレッチャー合作による悲喜劇『フィラスター』の影響を云々する人もいるが、シェイクスピア自身がどうしても書きたいという強い意志を持つか、書かざるを得ない状況にあるか、どちらかでなければ、こういう劇を続けて書こうとは思わないはずである。これは宗教観のあらわれなのか。もっとシニカルに、「現実はこのようにいかない」ということを観客に意識させるためのものなのか。

 私自身は、悲劇にも喜劇にも長けた劇作家のキャリアの締め括りが、『シンベリン』に象徴される過剰なハッピーエンドであるところに、一種の願望をみる。オスカー・ワイルドが失意の中で書いた「人生は目もあやな喜劇(brilliant comedy)になるはずだった」を未来形にした心理である。権力者の愚行を描きながらも甚大な悲劇へと進まず、いわば夫婦・親子の単位で、運命と意思の力を以て希望溢れる未来を切り開く展開には、シェイクスピアの祈りが込められているような気がしてならないのだ。それは不条理を生きる人たちに向けられたものであり、また、自身の人生に向けられたものでもあったのではないか。
(阿部十三)


【関連サイト】
Shakespeare 「Cymbeline」