文化 CULTURE

生きるための不条理

2017.04.08
 ドストエフスキーの『死の家の記録』によると、一人の人間を潰して破滅させる最も恐ろしい罰は、一から十まで全く無益で無意味な作業をさせることらしい。意味と目的と達成から切り離されたその罰は、「たとえば一つの桶から別の桶に水を移し、その桶からまたもとの桶に移すとか、ひたすら砂を槌で叩くとか、一つの場所から別の場所に土の山を移して、また元に戻すといった作業」のことを指す。それを何日か続けさせれば囚人は自殺するか自棄になるか、どちらかを選択するというのだ。ナチスの強制収容所では、この「最も恐ろしい罰」が実際に拷問として採用されていたらしい。

 モンゴメリー・クリフトやバート・ランカスターが出演した映画『地上より永遠に』(1953年)を思い出す人も多いかもしれない。それは、拳闘部に入ることを拒否したプルーイット(モンゴメリー・クリフト)が上官や同僚に散々いじめられるエピソードの一つで、大きな穴を掘らされ、次に「埋めろ」と命令され、そのまま何も言わず穴を埋めはじめる短いシーンだ。私は中学の時、これを観て心底ゾッとした。有名な波打ち際でのキスシーンよりも印象に残ったと言っても過言ではない。なお、同じようなシーンは、ポール・ニューマン主演の『暴力脱獄』(1967年)にもある。

 こうした反復は不毛であり、救いがない。一体いつまで続けなければならないのか。何度繰り返さなければならないのか。その無意味な行為の限度のない繰り返しは、われわれの精神を崩壊させる。これが全く孤独な状態で続くのだとしたら、崩壊へのスピードは倍以上になりそうだ。

 「最も恐ろしい罰」の由来は、ギリシャ神話にあるのだろう。神の秘密を漏らし、神を欺いたために罰を受けたシーシュポスの話である。地獄に落ちたシーシュポスは、大きな岩を押し上げ、山の頂まで運ぶ。しかし頂に達すると、岩は転がり落ちてしまう。彼は山を降り、その岩をまた頂まで運ぶ。これを一人で永遠に繰り返す。彼がやることには全く何の意味もない。決して達成することはなく、発展もせず、何かを約束されることもないのである。

 そんなシーシュポスを、若き日(1942年)のアルベール・カミュは『シーシュポスの神話』の中で、「不条理な英雄」と呼んだ。無論、カミュはただ神話の紹介をしたのではなく、「生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している」人々に、不条理な英雄であれと説くために、そのように書いたのだ。この話は時代や国を問わない。現代社会で、もし毎日満員電車に乗って会社で穴を掘らされ、岩を運ばされているとしたら、その人もシーシュポスだ。そういう人は、「生まれてきたことには意味がある」とか「意味のない人生はない」といったメッセージに心揺さぶられながらも、その言葉のむなしさを敏感に感じ取っている。

 「人を圧しつぶす真理は、認識されることによって滅びる」とするカミュは、不条理そのものと向き合い、無情な責め苦を凝視することを勧める。その際、不条理を足がかりにして、這い上がり、もっともらしい思想を得ようとしてはならない。不条理から別の何かへの飛躍、跳躍を期待するのではなく、「可能なかぎりその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討すること」が大事なのである。「ガリアニ神父がデピネ夫人に語ったように、重要なのは、病から癒えることではなく、病みつつ生きること」であり、意識的であること、反抗を貫くこと、自らすすんで死なないことがここで奨励される。

 これを受けて、モーリス・ブランショは『踏みはずし』の中で次のように換言している。「不条理の精神は、おのれに与えられた矛盾をあるがままに受け入れ、そこに閉じこもり、それを意識し、それを鋭利化する。そして、はぐらかしや逃げ口上で、そこから脱しようとするどころか、おのれに満足を与えうる唯一の情熱のように、この矛盾によって生きようとするのである」ーーこのような不条理の受容は、自殺しないための生き方と言える。これにより桶から水を移す行為も、穴を掘る行為も、岩を運ぶ行為も、一人の人間を潰して破滅させるものではなくなる。

 しかし、ブランショはカミュに同調しているわけではない。ブランショは、カミュが「結局のところ、不条理を、すべてを混乱させ打ちくだくものではなく、整理できるものに、それどころかすべてを整理するものに、化している」と鋭く指摘する。「彼(カミュ)の著作においては、不条理は、或る解決になる。それは解決であり、一種の救いなのだ」ーーこの議論は、理性で割り切れない不条理を扱う理性の在り方を追求する迷路への誘導に見えなくもない。多くの読者は、「不条理」という言葉を得た後で、ブランショのような追求は行わない。身も蓋もないことを言うなら、解決であり、救いであり、それでいいのである。「不条理」と名付けること自体、カミュ自身が「不条理な英雄」と表現した屈折的ヒロイズムへの一歩となり得るのだ。

 不条理を受け入れることは、過酷な世界を生きるための当座の判断としては正しい。感情、思想、空想、希望、信仰の力は(時と場合によるが)極限まで行くと死や滅びと結びつきかねない。不条理の精神にはそういうことは起こらない。が、狂気には転換し得る。もし、『カラマーゾフの兄弟』でイワンの前に現れるあの悪魔が、われわれの前に出現したら、どうなるだろうか。「地球そのものも十億回繰り返されているものかもしれない。地球が生命を終えて、凍りつき、ひびわれて、バラバラに砕けて、元素に分解され、また大地の上空を水が充たし、それから再び彗星が、太陽が、太陽から地球が生まれる。このプロセスが無限に繰り返されているかもしれない」と吹き込まれ、茫漠とした途方もない反復のイメージへと放り込まれたら、それでも反復を続けることが出来るだろうか。本人は英雄のつもりでも、気付かぬうちに心を崩壊させている場合もある。そんな状態へ追いやられるなら、大いなる滅びの美学のうちに果てたいと願う人もいるに違いない。

 無意味な反復でも多少バリエーションをつけることが出来るのであれば、まだ救いがあるが、それだって何回まで反復可能かはわからない。夏目漱石の『夢十夜』の第十夜では、いつ終わるとも知れない豚地獄が描かれる。ここでは町内一の好男子で善良な男が山へ連れて行かれ、ステッキで豚を崖から落とす行為を延々繰り返す羽目に陥る。これは相当苦しそうだ。私自身の経験で言えば、ワープロやパソコンを導入して以来、せっかく書いた長い原稿のデータが飛び、また一から書き直したことが何回かあるが、それを一万回繰り返さなければならないとしたら、おそらく発狂する。少なくとも、カミュが書いたような、「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりる」という境地に達するのは難しそうだ。
(阿部十三)


【関連サイト】
カミュ 『シーシュポスの神話』