文化 CULTURE

永井荷風 殉教者の気概

2017.08.26
 大正3年から書かれた永井荷風の『日和下駄』には、「一名 東京散策記」という副題が付いている。その副題の通り、これは作者が地図を片手に散歩し、東京の風物を記す内容で、日本語を知る読者をして風景描写の粋を味到せしむるものである。

 しかし、無目的な散歩の書ではない。江戸趣味の荷風が手にしている地図は、「石版摺の東京地図」ではなく、「嘉永板の江戸切図」である。彼はあちこち歩き回りながら、「江戸の昔と東京の今とを目のあたりに比較対象」しているのだ。その結果、今はなき風景を惜しみ、時には「東京の今」を批判する気持ちが起こってくる。

「江戸絵図によつて見知らぬ裏町を歩み行けば身は自から其の時代にあるが如き心持となる。実際現在の東京中には何処へ行くとも心より恍惚として去るに忍びざる程美麗な若しくは荘厳な風景建築に出遇はぬかぎり、いろいろと無理な方法を取り此によつて僅に幾分の興味を作出さねばならぬ。然らざれば如何に無聊なる閑人の身にも現今の東京は全く散歩に堪へざる都会ではないか」
(『日和下駄』)

 「無理な方法」とは荷風らしい皮肉である。彼は境内や森や崖を形容するのに「幽邃」という言葉を好んで用いたが、それも心からの率直な表現というよりは、「自から其の時代にあるが如き心持となる」ための一種の方法というべきかもしれない。

 荷風は、西洋の猿真似をして日本の風景建築を破壊している日本人を批判せずにいられない。海外に約5年間(明治36年10月から明治41年5月)滞在していた者の目から見て、母国の現状は受け入れられるものではなかった。『日和下駄』で「眼前の利にのみ齷齪して世界に二つとない自国の宝の値踏みをする暇さえないとは、あまりに小国人の面目を活躍させ過ぎた話である」と皮肉っているのはまだ控えめな方で、その批判は、明治時代に書かれた『新帰朝者の日記』や『冷笑』といった小説の登場人物の口を借りて、激しい調子で語られている。

 と同時に、これらの作品では、帰国後の彼がこれまで以上に江戸に思いを寄せ、その文化を愛惜する心を深くしていったプロセスも明らかにされている。

「猶この他にさまざまな方面から、過激なる此西洋藝術の崇拝者をして祖國の過去を回顧せしめた事件の一ッは、或日中谷に連れられて向島から龜井戸の方まで散歩した時、其の邊の到る處、神社の繪馬堂には連歌が掛けてあるし、寺の庭には俳句を刻した石碑の數知れず建てられてあるのを見て、紅雨は形式こそ違へ、どうしても巴里の公園や墓地を散歩して墓標や記念像の石臺に刻された古人の詩句をさぐるに等しい趣のある事を感じた事である」
(『冷笑』)

 小説家の紅雨には、荷風自身が投影されている。中谷というのは紅雨の友人で、社会からドロップアウトした狂言作者である。ここに書かれている心境は、昭和2年の「向島」でも別のヴァリエーションーー「隅田川上流の蒹葭と揚柳とはわたくしをして、セーヌ河上の風光と、並せてまたアンリ・ド・レニエーが抒情詩を追想せしめる便りとなつた」ーーを以て回顧されている。

 荷風は外国にかぶれていたのではない。それどころか、江戸から続いている日本人に親しい風物を誇るべきものとみなし、それらがあれば、西洋にコンプレックスを抱く必要はないと考えていた節がある。彼はその国の風土に根付いた真の文化、真の情趣を愛したのである。日本は西洋になれないのではなく、西洋ではないのだ。帰国の翌年(明治42年)には、「当今の日本文壇全体の調子が乱脈であるのを見ても、私は今の日本文壇に最も必要なるものは、正確なるクラシツクであると感じて居る」(『吾が思想の変遷』)とも書いている。そういう意識を明確に持った上で、同年末、江戸情緒をまぶした「正確なるクラシツク」小説『すみだ川』を発表することになる。

 この小説が発表された明治42年の時点では、筋の通った思想なき破壊行為に対して、文人らしく露骨に反抗していた。『新帰朝者の日記』で日本批判が爆発しているのは、単純な西洋崇拝によるものではない。「個人の胸底に流れて居る根本の思想」が希薄な状態で、綺麗事を並べながら、日本人に不似合いな文明を「虚栄心の上に体裁よく建設」していることに憤っているのだ。この「個人の胸底に流れて居る根本の思想」はアイデンティティーと言い換えてもいいだろう。

 ではどのように日本を改革すべきなのか。荷風の批判は社会改革への提言までは到達しない。『新帰朝者の日記』や『冷笑』を書いた荷風には、自分にとって居心地のよい世界を望むことであらゆるものに挑発されるような性情を、創作上の武器としていたところがある。『冷笑』に登場する小山清の「最初からして先づ失望を豫期して、覺悟して、冷笑的に理想の程度を高めて行つたのである」という傾向の幾分かは、作者自身の自己分析の産物でもあった。

 そんな傾向の成り行きとして、批判精神はジレンマを内包するものとなる。

「自分は直接日本を改革しやうと云ふ目的を以て論じたのでもなければ又自ら立つて改革しやうと云ふ程の勇気もない」
(『新帰朝者の日記』)

 この帰朝者の自覚は作者自身のものとみてよい。当時の作品の中で展開されていたのは、政治批判にも結びつきかねない社会批判、文明批判であったが、作者も登場人物も改革を意図しているわけではなかった。責任を負う立場には身を置かないのである。だから、荷風の批判には思想が欠けていると言われる。「まことに一方的な個人的気質から発したイヤミ、ないしは私憤的な様相をおびていて、正常な意味での思想的煩悶や痛苦などはカケラほども感じられない」(野口冨士男)という評言まであるくらいだ。

 「カケラほども感じられない」は言い過ぎだろう。荷風は無反省な人間ではない。われわれは明治42年に書かれた『藝術は智識の樹に咲く花也』という小文で、荷風が藝術至上主義の立場から「晩年のゾラの作物」を例に引いて、「主張が露骨に出て居るから称賛したくない」と言い切っていることを忘れてはならない。にもかかわらず自身の作物で主張をしていたのは、思うように己の藝術に身を埋めさせてくれない煩わしい環境への怒りと見るべきである。私憤は私憤でもそれ自体真面目な怒りであり痛苦である。

 その後、荷風は改革者と誤解されようのない形で同時代への反抗的態度を示してゆく。「正確なるクラシツク」をより意識的に志向し、近代東京の石壁の向こう側に、失われた文化、破壊された風景を透視し、消え去った(あるいは消え去ろうとしている)人々を弔う立場をとるのである。
続く
(阿部十三)


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