文化 CULTURE

ある音楽家の言葉

2019.01.26
 スイス出身の大ピアニスト、エドウィン・フィッシャーの著書に『音楽の考察』というエッセイ集がある。邦訳もあり、『音楽を愛する友へ』と題されて新潮社から出ていた(1958年初版)。
 フィッシャーはこの本の中で、演奏家の心得を述べ、「作曲家が作品を懐胎した時に彼が霊感を受けていた状態に、われわれ自身の身を置くこと」の大切さを説き、合理主義に傾いている音楽表現や音楽教育に警鐘を鳴らした。

「作曲家の付した発想記号が、ついにはわれわれ自身の感情と一致するにいたるのでなければならない。われわれ自身の感情体験となっていないクレッシェンドやフォルテなど、糊で貼りつけられたような不自然な感じを与えるものである」
(エドウィン・フィッシャー「楽曲の解釈について」)

 現在は「ベートーヴェンのクレッシェンドの『C』の字がどこで始まっているか、虫眼鏡で手稿の原楽譜の中を調べる」時代であり、「ベートーヴェンの中に産出力の源となって旋回していた火山的爆発力、彼を照らしていた太陽、彼の心臓を引き裂いた絶叫、われわれを震撼させるはずのこれらのものに対して、われわれは不感症になっている」。しかし、「当のクレッシェンドをベートーヴェンらしく演奏するだけの感情の強さを持っているのでなければ何にもならない」というフィッシャーの主張は明快である。

 フィッシャーと仲が良かった大指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーも、これと似たようなことを書いている。

「自分の内部に一片のベートーヴェン、ワーグナーなどを有さず、何らかの形で『同質』でない者は、彼らを決して真の意味で解釈することはできないであろう。最大の誠実さ、忠実さ、努力も、いかに熟練した能力たりとも、その埋め合わせをすることはできない」
(ヴィルヘルム・フルトヴェングラー「パリサイ人と律法学者 芸術と道徳」)

 楽譜の研究や技術の上達が無為だと言っているのではなく、そこに偏りすぎることに疑問を呈しているのだ。それは作曲家の意図に忠実ならんとする努力の一形態であり、演奏家と作曲家の感情を重ねるのはまた別の話である。作曲家が霊感を受けていた状態に身を置くには、才能だけでなく、素養、思想、人間性、生活の質などが問われてくるのだろう。

 指揮者や演奏家が、作曲家の霊感を己のものにした演奏をすることは、たしかに可能である。現代にもそういう演奏家はいる。不思議なもので、それは聴き手にも感じ取ることができる。その音楽に接すると、偉大なものから啓示を受けたような震えが、静かに、あるいは激しく、全身に起こるのだ。フィッシャーやフルトヴェングラーは、確かにそういう音楽をわれわれに体験させる人だった。だからこそ、彼らは精神性を重んじる立場で、警鐘を鳴らしたのだろう。正確無比の技巧を備えた演奏家を「精神性がない」と批判したがるのは悪しき風習だが、精神性というと、非合理的だと鼻で笑ったり、すぐに訝しがったりする傾向は危険である。

 夭折したピアニストのディヌ・リパッティも、作曲家の霊感に触れることができた芸術家だった。彼は亡くなる30分前、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴きながら、妻にこう言った。「偉大な作曲家になるということだけでは十分ではないんだね。あのような音楽を書くためには、君は神の選ばれ給うた楽器にならなければならないんだよ」。この言葉を受けて、プロデューサーのウォルター・レッグは「リパッティのように弾くためには、あなたは神に選ばれた楽器にならなくてはならない」と書いた。

 こういう話は、演奏家のことを云々し、偉大な作曲家や作品を紹介したり評価したりする側にいるペンを持つ者にも、他人事ではない。中身のない文章を手際よく転がすような軽薄さは排除すべく努めるべきだし、どんなタイプの音楽を扱うにせよ、作曲家や作品の世界を受け入れ、自分の魂と呼び合う何かを見出さなければならないだろう。たとえ好きな人物や作品であっても、自分の中で明確なゴーサインが出るまでは、なるべくそのことについて書かないのがベターである。私自身、そうは言いながらも、つい見切り発車で書きたくなる衝動に駆られることがあるが、そんな時、フィッシャーの言葉を思い出すとブレーキがかかるのである。
(阿部十三)