校正、葉を掃くがごとし
2019.05.05
校正おそるべし、とは「後生畏るべし」のもじりで、編集や校正の経験者なら一度は聞いたことがある箴言みたいなものだ。最初に言いだしたのは「東京日日新聞」の社長、福地桜痴らしい。たしかに校正は怖い。奥が深い。著名な作家の全集には、すぐれた編集者や校正者が関わっているはずなのに、それでもミスがある。作者自身による誤記に、写植や文字化けによる誤植が加わることもある。何度も読み直しているはずなのにミスが棲息しているのだ。
校正に自信は禁物だ。下手に自信を持ってしまうと、単に自分が見逃しただけなのに、製本されてから誤記・誤植が魔法のように出現したのではないか、という妄想にとらわれることになる。私は自分の文章であれ、他人の文章であれ、初校の段階で誤りが見つからないと不安になる。見つからなければ、「そんなはずはない、必ずあるはずだ」と考える方が良いのだ。
一番いやなのは、どこかにミスがあるような気がするのに、それが見つからない時だ。「一見、問題はない。でも何かありそうだ」と。長年校正をしていると、そういう勘だけは鋭くなる。そして、大体において勘は当たる。問題は、締切までにそのミスに気付けないことであり、本が出た後、「やっぱり私の勘は当たっていた」と言っても何の自慢にもならない。
世の中には天性の校正者がいる。神代種亮や西島九州男は「校正の神様」と呼ばれていた。神代は有島武郎、永井荷風、谷崎潤一郎、芥川龍之介といった作家たちに信頼され、西島は岩波書店に入社して早々、第三次『漱石全集』を担当し、以後同社で長年校正を手がけていた。彼らのおかげでミスの嵐から救われた本は何冊もあったにちがいない。まさしく救いの神だ。
そんな西島の教えを受けたのが、若い頃に岩波の社外校正係をしていた澁澤龍彦だ。彼は「校正について」というエッセイで、字句の統一に苦言を呈している。
「近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。『生む』と書こうが『産む』と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、両方を使い分けても一向に差支えないのである」
私は新人編集者の頃、表記の統一は絶対だと言われていた。『生かす』は『活かす』に、『行なう』は『行う』にすべし、などなど。しかし今は書き手の意向を無視することに反対だ。企業のパンフレットのようなものは別として、署名原稿でそれをやると、整然とするが息苦しい感じになる。
開き直りで私が思い出したのは、ヴィリエ・ド・リラダンの『残酷物語』だが、さすがに〈誤植読本〉と銘打っているだけあって、これに言及したエッセイ(林哲夫)も入っている。『残酷物語』の中の一編は、某紙の主幹とジャーナリスト志願者による会話劇だ。自著を出したがっているジャーナリスト志願者が「自分の原稿を筆耕に清書させた」と言うと、主幹は「なぜ清書させたのですか」と責める。そして、こう続ける。
「市民は誤植を愛す、ですよ! 誤植が見つかると鼻が高いのですな。殊に地方じゃそうです。あなたはたいへんなへまをやらかしましたな。やれやれ!」(齋藤磯雄訳)
今日、印刷物の誤字脱字がSNSなどで笑いのネタにされているのを見ると、これもあながち戯言とは言えないのかもしれない。
1631年に印刷された聖書では、十戒の「汝、姦淫するなかれ」の「not」が抜け、「汝、姦淫すべし」となっていた。聖書にすらこんなミスが生じうる。中村真一郎によると、謹厳実直な恩師が出した翻訳本のあとがきに、出版が遅れた理由について、「或る情事」のため、と書かれていたという。これは「事情」の誤り。他人事なので笑えるが当人にしてみればたまったものではない。
『増補版 誤植読本』から離れるが、芥川龍之介も誤植について、「本の事」で一言述べている。明治10年代の小説を集めて読んでみたら、「あの時代の活字本には、当世の本よりも誤植が少い。あれは一体世の中が、長閑だったのにもよるだろうが、僕はやはりその中に、篤実な人心が見えるような気がする」ーー校正の能力と篤実な人心は別物だが、有能な者が篤実であるに越したことはない。当世の誤植の多さをチクリとやりながら、芥川がこの言葉に込めたのはむしろ「人心かくあれかし」という願望だろう。
たいていの人は、他者のことは冷静に見ることができるが、自分のこととなると冷静さを欠く。他者には的確なアドバイスができても、自分はそれが出来ていない、というケースは数多ある。校正もまた然りで、他者の目を通しておくに越したことはないのだ。それが難しい場合は、原稿を書いた後、数日放置しておいて、ほぼまっさらな気持ちで何度か読み返す。その余裕がない時は、とりあえず一度くらいは読み返し、残った葉っぱは「野となれ山となれ」と腹を括るしかない。
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校正に自信は禁物だ。下手に自信を持ってしまうと、単に自分が見逃しただけなのに、製本されてから誤記・誤植が魔法のように出現したのではないか、という妄想にとらわれることになる。私は自分の文章であれ、他人の文章であれ、初校の段階で誤りが見つからないと不安になる。見つからなければ、「そんなはずはない、必ずあるはずだ」と考える方が良いのだ。
一番いやなのは、どこかにミスがあるような気がするのに、それが見つからない時だ。「一見、問題はない。でも何かありそうだ」と。長年校正をしていると、そういう勘だけは鋭くなる。そして、大体において勘は当たる。問題は、締切までにそのミスに気付けないことであり、本が出た後、「やっぱり私の勘は当たっていた」と言っても何の自慢にもならない。
世の中には天性の校正者がいる。神代種亮や西島九州男は「校正の神様」と呼ばれていた。神代は有島武郎、永井荷風、谷崎潤一郎、芥川龍之介といった作家たちに信頼され、西島は岩波書店に入社して早々、第三次『漱石全集』を担当し、以後同社で長年校正を手がけていた。彼らのおかげでミスの嵐から救われた本は何冊もあったにちがいない。まさしく救いの神だ。
誤植にまつわる話、作家の意を汲まない校正・校閲に対する愚痴などを集めた『増補版 誤植読本』(ちくま文庫)に、西島九州男が書いた「『漱石全集』のことなど」が収録されている。それによると、西島は原典主義(「あくまで原稿どおりに、原稿の間違いは間違いどおり」)に徹した『漱石全集』の方針に一部懐疑的で、例えばルビの誤りをそのまま出すことなどには内心反対していたようだ。が、その一方で、独特の癖を持つ漱石らしい当て字や言い回しを「辞書にない」という理由で辞書通りに直すことは「漱石ものの味や面白味」を損なう、としている。
そんな西島の教えを受けたのが、若い頃に岩波の社外校正係をしていた澁澤龍彦だ。彼は「校正について」というエッセイで、字句の統一に苦言を呈している。
「近ごろの校正者の通弊として、私がもっとも困ったものだと思うのは、やたらに字句の統一ということを気にする点である。これは画一的な学校教育や受験勉強の影響ではないか、などと考えてしまうほどだ。『生む』と書こうが『産む』と書こうが、どっちでもいいのである。その場合に応じて、両方を使い分けても一向に差支えないのである」
私は新人編集者の頃、表記の統一は絶対だと言われていた。『生かす』は『活かす』に、『行なう』は『行う』にすべし、などなど。しかし今は書き手の意向を無視することに反対だ。企業のパンフレットのようなものは別として、署名原稿でそれをやると、整然とするが息苦しい感じになる。
ただ、誤字脱字はなくしておきたい。佐藤春夫は「誤植というもの」の中で、「校正のむつかしさを、葉を掃くがごとしと言ったのは支那人である」と書いている。ちなみに、神代種亮の号は「帚葉」だった。箒は校正であり、葉は誤植である。葉をいくら掃いても細かい葉は残っているものだ。とはいえ締切はやってくるし、どこかでケリをつけなければならない。佐藤はやさしい文章を書けば誤植が少なくなるのでは、と考えたが、それでも誤植が生じる。となると、開き直り、「誤植を正し判読するほどの読者」をあてにするほかない。
「市民は誤植を愛す、ですよ! 誤植が見つかると鼻が高いのですな。殊に地方じゃそうです。あなたはたいへんなへまをやらかしましたな。やれやれ!」(齋藤磯雄訳)
今日、印刷物の誤字脱字がSNSなどで笑いのネタにされているのを見ると、これもあながち戯言とは言えないのかもしれない。
1631年に印刷された聖書では、十戒の「汝、姦淫するなかれ」の「not」が抜け、「汝、姦淫すべし」となっていた。聖書にすらこんなミスが生じうる。中村真一郎によると、謹厳実直な恩師が出した翻訳本のあとがきに、出版が遅れた理由について、「或る情事」のため、と書かれていたという。これは「事情」の誤り。他人事なので笑えるが当人にしてみればたまったものではない。
『増補版 誤植読本』から離れるが、芥川龍之介も誤植について、「本の事」で一言述べている。明治10年代の小説を集めて読んでみたら、「あの時代の活字本には、当世の本よりも誤植が少い。あれは一体世の中が、長閑だったのにもよるだろうが、僕はやはりその中に、篤実な人心が見えるような気がする」ーー校正の能力と篤実な人心は別物だが、有能な者が篤実であるに越したことはない。当世の誤植の多さをチクリとやりながら、芥川がこの言葉に込めたのはむしろ「人心かくあれかし」という願望だろう。
たいていの人は、他者のことは冷静に見ることができるが、自分のこととなると冷静さを欠く。他者には的確なアドバイスができても、自分はそれが出来ていない、というケースは数多ある。校正もまた然りで、他者の目を通しておくに越したことはないのだ。それが難しい場合は、原稿を書いた後、数日放置しておいて、ほぼまっさらな気持ちで何度か読み返す。その余裕がない時は、とりあえず一度くらいは読み返し、残った葉っぱは「野となれ山となれ」と腹を括るしかない。
(阿部十三)
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