文化 CULTURE

英泉の美人画

2021.07.10
天才絵師

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 みんなで示し合わせてこの時代を選び、集結したのではないか。そう思いたくなるほど、江戸の寛政・文化・文政期には、多くの天才絵師が活躍していた。ちょっと名前を挙げるだけでも、喜多川歌麿、葛飾北斎、写楽、歌川豊国、歌川国貞、歌川広重、歌川国芳とビッグネームが並ぶ。寛政3年(1791年)、武士の家に生まれ、狩野白珪斎と菊川英山に絵を学び、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』や為永春水の『春色袖の梅』などの挿絵を手掛けた渓斎英泉も、その中の一人である。

 『時世美女競』、『浮世風俗美女競』、『御利生結ぶの縁日』シリーズなど、英泉の美人画には優れたものが多い。風景画では『木曾街道』シリーズが代表作だが、途中で広重に交替することになり、英泉が描いたものは全70点のうち24点にとどまった。一人で仕上げられなかったことが惜しまれる。また、淫乱斎という隠号で春画も大量に描いた。彼の春画は、大胆な構図と彩色、巧みな文章で当時の民衆を魅了し、大変な勢いで売れたという。

特徴

 英泉の美人画には一目でそれと分かるほどの特徴がある。輪郭は面長で、瞳は左右どちらかに寄り、つり目である。鼻筋は綺麗に通り、やや受け口で、下唇には玉虫色の紅がついている。姿勢は猫背で首を傾け、頭が大きくて六頭身。誰もが認める美人とは言い難い。彼女たちは綺麗なお人形さんとは違い、顔に強い個性があり、表情があり、退廃的な色気があり、リアルな実在感を醸している。働いて、悩んで、悲しんで、息抜きして、逞しく生きている、生活感のある女性なのだ。

 英泉が憑かれたように描いていたのは遊女や芸者の絵である。それも吉原の花魁から辻君(夜鷹)まで幅広い。夜鷹は最下層の遊女だが、英泉は差別せず、細かく丁寧に描いた。根っからの女好きということもあり、モデルとして接するというよりは、様々な女の性質を徹底的に追求し、愛おしむような気持ちで筆をとっていたのだろう。彼女たちの目には情念がにじみ出て、哀愁と妖しさが濃く漂っている。例えば「時世美女競 辻君」のような絵を見ても、美人画にありがちな静止画的でのっぺりとしたポートレート感がない。じっと眺めていると、今にも表情が動き、愁いに満ちた息づかいが漏れてきそうである。

足と着物

 彼女たちの肉体を支えている足にも注目したい。甲と節の盛り上がった立派な足ばかりである。特に足の指を見せる必要性が感じられない「美人料理通 山谷 八百善」のような絵でも、裾から爪先が出ている。その執着ぶりは異常と言えるほどだ。おそらく英泉は女性の足の指を偏愛していたのだろうが、それと同時に、地に足をつけて生活する女性たちの逞しさといじらしさを表現しようとした意図も感じ取れる。

 美人画といえば、大事なのは着物である。名のある絵師なら着物を描く技術に長けていなければならない。英泉もまた確かな腕を持っていた。その実力が驚異的なものであったことは、遊女絵の代表作『契情道中双六』シリーズからはっきりとうかがえる。その鮮やかな色や凝った柄は、生で見ると絶句するほどヴィヴィッドで美しい。肉筆画の「夏の洗い髪美人図」や「見立女三の宮図」もすごい。着物から白い肌が透けて見えるように描かれていて、夏物の生地の質感だけでなく、すべすべした肌の触り心地まで伝わってくる。

ベロ藍

 英泉の美人画の中で世界的に有名なのは、「雲龍打掛の花魁」である。これはフランスの雑誌『パリ・イリュストレ』(1886年)の表紙に使われ、ゴッホが模写し、「タンギー爺さん」の背景に描き込まれた。英泉の名を知らなくても、この絵は知っているという人は少なくない。ただ、これとほとんど同じ構図を持つ藍摺絵「鯉の滝登り打掛の花魁」の方が、着物の柄の精巧さと美しさがよく出ている。花魁の矜りの高さが表現されているのも藍摺の方だ。

 文政以降、ベロ藍(ベルリン・ブルー、プルシャン・ブルー)の名称で知られる藍摺が流行したことは周知の通りである。その火付け役となったのは、英泉が描いた山水の団扇絵であった。いかにも涼やかで美しい絵だ。英泉はこの藍摺を美人画にも用いて、天保期に大迫力の大判三枚続の「仮宅の遊女」を出した。これは文政期に描いた「姿海老屋楼上之図」の背景や着物の柄などをガラリと変えて、藍摺にしたものだ。ちなみに、「仮宅」というのは、天保6年(1835年)に吉原で大火事があったため、隅田川沿いの仮宅で営業していたことを指している。

文章

 英泉著『无名翁随筆』は浮世絵史の貴重な資料だが、そこに自分自身について記した文章がある。ちょっと近所まで、と出て行った後、泥酔して木更津行きの船に乗っていたというエピソードは、皆川博子の小説『みだら英泉』にも出てくるが、これは根も葉もない噂ではない。当の本人がそう書いているのだ。自ら「放蕩無頼の人」と称する彼は、遊女屋の経営もしていた。遊女たちの面倒は自分が見るという気概があったのかも知れない。『无名翁随筆』によると、結婚もしていて、養女を育てていたらしい。

 英泉が相当のインテリであったことは、『无名翁随筆』のような本を読むまでもなく、錦絵に書かれた格調高い文字と優雅な文章を見れば明白である。書は人なり、とはよく言ったものだ。武士の子が数奇な運命を辿り、狂言作者見習いを経て、絵師になり、女に夢中になり、放蕩に明け暮れた。それでも知性の泉が涸れることはなかった。どこかで自分を保とうとする力が働いていたのだろう。

生命力

 英泉は子供絵も得意とし、「四季の遊」シリーズ、「四季の詠おさな遊」シリーズを描いている。子供の底知れない生命力が英泉を刺激したのだろう。どれを見ても、生き生きした子供たちの様子がダイレクトに伝わってくる逸品ばかりだ。子供が出てくる絵だと、『木曽街道 倉賀野宿 鳥川之図』も素晴らしい。水遊びをする子供たちの声、ばしゃばしゃという音が聞こえてきそうだ。英泉が描く子供には、不死の生命が宿っているように感じられる。

 遊女や芸者についても、ほとんど同じことが言える。英泉は生命力の化身である彼女たちの動きを縛ることなく、一瞬の表情や所作を捉え、活写し続けた。その美人画は、血が通っていて生々しい。紙の上で窮屈そうにしている者は一人もいない。生きている。輝いている。六頭身であろうと猫背であろうと関係ない。日陰で強く生きる女たちの生命は美しいと、英泉の美人画は私たちに教えているのである。
(阿部十三)


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