文化 CULTURE

昭和初期のアパートメント

2023.03.14
アパートの普及

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 日本にアパートが本格的に普及したのは、同潤会が設立されてからである。同潤会は、関東大震災後の復興支援として1924年(大正13年)に内務省社会局が始めた住宅供給事業で、東京と横浜に最新型のアパートメント・ハウスを建設したことで注目を集めた。それは耐震耐火の鉄筋コンクリート造で、欧米の建築様式や電気瓦斯などの新技術を取り入れた住宅だった。この「同潤会アパート」は1926年から1934年までの間に、計16ヶ所に建設された。

 アパート普及の引き金となったのは震災だが、都市の人口問題や住宅難の打開策としてアパートを建設すべきではないか、という議論はそれ以前からなされていた。推進派の一人だった建築家の小野武雄は、1918年7月と9月の『建築雑誌』で、現今の日本はアパートメント普及の「期運に充分到達せる」と述べ、このように説明している。

「人工稠密にして生活費の昇騰せる都会にあっては、僅々の面積に多数の人を集合居住せしめ、家庭の安息と時間の節減並びに経費の軽減を計ると云ふ事は、都市の経営上見逸すべからざる一大要件であって、此の目的に向かって研究建築せられ在らゆる文明組織によって建設せられたる住居建築はApartment House 住宅館と称せられるのである」
(小野武雄「アパートメントハウスを論ずる」)

自由な生活の象徴の場

 震災以前にも、東京市営小石場住宅などアパートの前身は存在しており、文化生活の代表として文化住宅が人々に新鮮な印象を与え始めていた。谷崎潤一郎の『痴人の愛』(連載開始は1924年だが、震災以前の東京と横浜が舞台)にも、河合譲治とナオミの新居として文化住宅が登場する。評論家の竹内清己はそのことに触れ、「文化住宅とかアパートは、当時土着から離れ家族という意識から自由な生活の象徴の場であった」と述べている。

 設備が整っているだけでなく、外観も洗練され、口うるさい親もいないアパートが若者たちに好まれ、新たな東京の風物となったことは言うまでもない。1925年11月発行の『社交用語の字引』には早速「アパアトメント」の項が設けられ、「蜂窩家屋」という文字があてられている。蜂窩は、蜂の巣という意味である。ちなみに1929年度の同潤会事業報告によると、六畳・四畳半の間取りの場合、中之郷アパートメントの家賃は14円50銭。青山は16円。渋谷(代官山)は16円60銭だった。

 当時のアパートは、夢のある新生活を期待させたことだろう。自立してアパートで暮らす女性も増えた。1928年に発表された龍胆寺雄の小説『アパートの女たちと僕と』にも、アパートに住むモダンガールの姉妹が登場する。しかしながら現実は厳しく、家賃を払えずに追い出される住人は少なくなかった。その辺の事情は、畑耕一の「アパート生活者の悲哀」(『改造』1929年6月)に詳しく書かれている。畑はこのエッセイで、居住者たちが管理者の言いなりで金をむしり取られている状態にあると指摘し、アパート建設当初の文化生活展望とズレていることを批判している。

小説の女たち

 『アパートの女たちと僕と』の姉妹は、銀座でショップガールとして働いている。当時のショップガールの収入は大抵30円、多くても50円なので、それだけでは経済的に苦しい(サラリーマンは100円程度)。「東京百鬼夜行録」(『改造』1925年4月)で、北澤秀一は「ショップガールは夕方店から帰ったあとの時間を自由に使い得る点だけでも近代的勤務である」と書いているが、皆が皆、「近代的勤務」だけで済んでいたわけではない。『アパートの女たちと僕と』の姉妹の場合、お金に困り、アパートに男を連れ込んで娼婦まがいのことをしていた。

 平林初之輔の小説『アパートの殺人』(『新青年』1930年7月)では、アパートで若い女優がだらしない生活を送り、複数の情人と関係を持ち、ナルコポンの注射を打っている。まさに堕落の温床。「所詮はフィクションだろう」という声が聞こえてきそうだが、実際にアパートが淫行の場となることはあった。1933年9月5日の東京朝日新聞では、「アパート屋上、不良の巣、女給が恋の女王に」という見出しで、7人の不良が「住み手のないアパート屋上を夜の宿に悪の華をさかせていた」ことが報じられている。


アパート氾濫時代へ

 当時のアパートは、健康面・衛生面においても問題があった。同潤会の調査(1932年5月発表)によると、アパート室内の炭酸ガス含有量が異常に多かったという。住宅衛生の専門家は再三にわたり注意喚起を行い、アドバイスをしていたが、功を奏することはなかった。ちなみに、調査の対象となったのは高級アパートである。それ以外の庶民向けのアパートがより有害性をはらんでいたことは容易に想像がつく。

 そんな問題を抱えながらも、アパートは次々と建設された。1935年9月の『改造』には「アパート氾濫時代」(高田保)などという言葉も出てくる。そのすさまじい勢いに抗えず、廃業に追い込まれた下宿屋は数多い。『國文學』1993年5月臨時増刊号の「明治・大正・昭和 風俗文化誌」によると、廃業が続出したのは、1934年2月頃からだという。とはいえ、素人下宿の中には、アパートブームに便乗して「アパート」と自称するケースもあったようで、定義は漠然としていた。

夢を見せるアパート

 1929年3月の『新潮』に興味深い座談会の記事がある。題して、「近代生活漫談会」。その中で評論家の新居格は「近代の生活様式はコークテール(カクテル)・エポックの、一言で盡きやしないかね」と語っているのだが、その流れで村山知義や勝本清一郎といったプロレタリア作家がアパート生活を賞揚し始める。彼らによると、アパートでの共同生活を経ることで、人々は個人主義から離れ、固く結びつくことになるだろうというのだ。さらに勝本清一郎は、「同じ食堂において同じ食事をし、同じような部屋に同じ着物を着てくらす」ことをアパート生活の美点とし、こんなことまで言っている。

「現代のコークテール的な状態にいながら、このコークテールの状態から脱して、単純な生活様式を持った一国を形づくり、その単純化された生活様式で今後の世の中の紛糾した問題を解決して行くということに喜びを感じます」

 アパートが新たな共同体を作るものとして期待されていたことを示す一例である。中村正常はそんな勝本の発言に拒否反応を示し、「それは貴方の喜びで、僕はそうでない」と突き放している。「勝本氏なんか独身者で、面白くこの世の中を握り睾丸で暮らして行かれるからいい」と、なかなかの喧嘩腰だ。秦豊吉(丸木砂土)は、もう少し冷静に、アパート暮らしの問題点を指摘し、共同生活の喜びよりも隣人トラブルの悩みを味わうことの方が多いのではないか、というニュアンスで勝本に反駁している。それに、アパートにも階級がある。安アパートもあれば、一軒家に住むより高くつく高級アパートもある。同じアパート内なのに、階上と階下の部屋で貧富の差が出ることも珍しくない。すでにそのような差がある状態で、生活様式が等しく単純化されることなど現実的にあり得るのだろうか。
 秦は自らの実体験を踏まえ、このように語っている。

「僕も六年間アパートメントの生活をやったが、問題は常に上下左右の家との交渉と喧嘩だ」

 この議論は秦に分があるように思えるが、皮肉なことに、1930年代後半になると、勝本たちが望まない形で新たな共同体が作られることになった。それが「アパート道場」である。1938年から横須賀や名古屋に建設されたこの道場は、お金のない若者に住居を与え、そのまま戦時体制への動員に繋げることを目的としていた。なんとも悲しい顛末である。
(阿部十三)


[参考文献]
同潤会「同潤会アパートメント建築工事概要」(『建築雑誌』1927年7月)
同潤会『事業報告 昭和4年度』(1930年6月 同潤会)
同潤会『同潤会十年史』(1934年5月 同潤会)
小野武雄「アパートメントを論ずる」(『建築雑誌』1918年7月、9月)
北澤秀一「東京百鬼夜行録」(『改造』1925年4月)
鈴木一意編『社交用語の字引:新しい言葉・通な言葉・故事熟語』(1925年11月 実業之日本社)
新潮合評会「近代生活漫談会」(『新潮』1929年3月)
高田保「アパート氾濫時代」(『改造』1935年9月)
竹内清己「龍膽寺雄」(『芸術至上主義文芸』1981年11月)
畑耕一「アパート生活者の悲哀」(『改造』1929年6月)
龍胆寺雄「アパートの女たちと僕と」(『改造』1928年11月)
平林初之輔「アパートの殺人」(『新青年』1930年7月)
関井光男編「明治・大正・昭和 風俗文化誌」(『國文學』1993年5月臨時増刊号)
同時代建築研究会『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』(1981年12月 現代企画室)


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