文化 CULTURE

竹内好の問題提起 その7 〜アジア主義を検証する〜

2023.08.20
 竹内によると、近代化が始まった頃の日本はアジア的連帯へ向かうこともあり得たが、その可能性は「明治三十年代、つまり日清戦争から日露戦争にかけて漸次消滅した」(「孫文観の問題点」『思想』1957年6月号)という。

「私は今日、日本がアジア的連帯を回復することを希望し、そのための条件を『理論的に』作り出したいと念願している。これは私の実践要求である」
(「孫文観の問題点」)

 ここで言うアジア的連帯は、反帝国主義・反植民地主義の精神をベースにしている。それまで「自由」と「平等」の実現の担い手は西洋だった。しかし、西洋がその文化価値をアジアに浸透させることには限界がある。そもそも西洋はアジアを植民地にしてきた側であり、「自由」と「平等」を唱える一方で植民地搾取を行うというのは自家撞着以外の何物でもない。現代のアジア人は、すでにそのことに気付いている。そして、「自由」や「平等」を全人類的に貫徹させる役目は自分たちで担うものだと考えている。1961年に行われた講演「方法としてのアジア」で、竹内はこのように語っている。

「西洋が東洋に侵略する、それに対する抵抗がおこる、という関係で、世界が均質化すると考えるのが、いま流行のトインビーなんかの考えですが、これにもやっぱり西洋的な限界がある。現代のアジア人が考えていることはそうでなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点になっている。これは政治上に問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない」
(「方法としてのアジア」)

 いまの日本にはこれから西洋とどう向き合うかという構想がなく、独自の思想もない。このままでは現代のアジアと連帯するのは難しい。しかし、元から無構想だったわけではない。後年、竹内が「日本のアジア主義」(『現代日本思想大系』第9巻「アジア主義」 1963年8月)で、明治以降のアジア主義にメスを入れたのは、思想の名に値する日本独自のものを取り出そうとする試みだった。その方法として、戦後日本でまともに検証されてこなかった玄洋社などの文献を日の下に引っ張り出し、内容を吟味し、アジア主義の発生根拠に立ち入ろうとしている。
 欧米列強のアジア侵略に抵抗するためにアジア諸民族は連帯すべし、というアジア主義は、かつて右翼と左翼のどちらにも見られた。しかし、「日本を盟主として団結せよ」という大アジア主義が形成されると、右翼の独占物となって膨張主義的な傾向を増し、「侵略主義のチャネル」に流れ込み、大東亜共栄圏に帰結した。皮肉なことに、その後、大東亜共栄圏の思想は「アジア主義をふくめて一切の『思想』を圧殺」し、左翼はもちろん右翼の思想も弾圧した。右翼思想による援護を必要としない状態になったのである。

 竹内は「アジア主義が右翼に独占されるようになったキッカケは、右翼と左翼が分離する時期に求めるべき」としている。ここで例として挙げられているのは、玄洋社の頭山満とルソー主義者の中江兆民の関係である。頭山は右翼、兆民は左翼と言われるが、2人は互いを認め合う仲で、しばしば同一歩調をとった。頭山は言うに及ばず、兆民もアジア主義的な考えを持っていた。しかし明治末期、それぞれの弟子、内田良平と幸徳秋水の代になると、思想が分かれ、アジア主義イコール右翼思想となり、一枚岩となる。もしアジア主義が左右双方から構想されていれば、侵略主義に流れこまずに済んだかもしれない。そのチャンスはあったはずだが、秋水も内田もチャンスを生かさなかった。

「内田と幸徳とが、ひとたび分かれて相会うことがなかったのは、日本人にとってばかりでなく、アジアにとっても不幸なことであった」
(「日本のアジア主義」)

 日本はどうあるべきか。右と左の思想家が同等に建設的な意見を出し合い、考えることで、独自の思想が生まれるはずだったが、そうはならなかった。そして戦後、ナショナリズムの匂いがするものは忌避され、分析・検証されず、まとめて蓋をされた。日本人には過去のあやまちを凝視せず、タブーにして意識から遠ざけようとする傾向がある。そのあやまちは全否定されるべきものなのか、あやまちの中で特に問題があったのは何なのか、あやまちの中に何か評価できることはないのか、あやまちの中から何か学ぶべきことはないのか。「予見と錯誤」(『日本読書新聞』1966年6月)の言葉を借りるなら、竹内はアジア主義を「過去の遺産」として整理し、そこから「何か将来に生かすものを探したい」と考えていたのである。
 しかし竹内以降、アジア主義の研究は進まなかった。「予見と錯誤」では、やや諦観を滲ませながら、「けっきょく、アジアのナショナリズムなり日本の過去のナショナリズム」は十分な再検討を経ることなく、「政府あるいは現状維持派」に「そっくりそのまま取り入れられた」と語っている。最近は大国意識が復活し、「1930年頃の戦争前のような感じになってきた」という。日本はまたあやまちを繰り返し、最終的に日本民族は滅亡するかもしれない。その危機感は、竹内の中から消えることなかった。

 「昭和何十年代に置いておくには惜しい硬骨の国士」ーーこれは埴谷雄高による竹内評である。国士とは、身をかえりみず、国家のことを心配して行動する人物、憂国の士のことだ。竹内はまさしく国士だった。かつて魯迅は『両地書』で、「国民が自分で自分の悪い根性を改革すること」が今後もっとも大切なことだと語ったが、竹内も同じ考えを持っていた。国民性の悪いところを改革せず、国が良くなることは望めない。
 竹内の影響で、日本という国の本質を見直す機会を得た人は多い。その活動は革命にも改革にも発展せず、自ら「内在批評」を成功させたわけでもないが、戦後最も重要な問題提起をした人物の一人であることに変わりはなく、その評論は今も研究対象としての価値を失っていない。竹内好について考えることは、日本について考えることである。私たちが竹内から引き継ぐべきものはあまりにも多い。
(阿部十三)


【関連サイト】

月別インデックス