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古井由吉 おびただしい足音 その1

2024.02.26
私観

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 古井由吉の小説は、簡単には掴みきれない。時折、何を読んでいるのか分からなくなることがある。
 2008年に発表されたエッセイ「招魂としての読書」によると、古井は読んだ本のことをすぐに忘れるらしい。「読んだ事に感嘆させられるほどに、後で綺麗に忘れる、という気味すらある。三読四読して長大息までしていたのに、机の前から立って十歩と行かぬうちに、はて、何のことだったか、と首をひねっている」ーーまさにこれと同じように、私は古井作品を読み終えると、「はて、何のことだったか」となる。いや、読んでいる間でさえ、そういうことが起こる。自分の中から読解力が削がれ、感性だけで読まされているような気分になるのだ。

 難解なのかと言われると、そういうわけでもない。難しい言い回しや難読漢字もほとんどない。高遠な真理を説いて仰ぎ見させることもない。文章は平明で、親しげなところがある。変な言い方だが、万人に門戸を開いている。そのくせ読んでも読んでも目をすり抜けていく感じがする。固有名詞が出てこない作品が多いとか、後期になると「彼」や「彼女」といった代名詞すら使われなくなるとか、あるいは突然俳句や短歌が引用され、その解釈をめぐる随想的な文章が続くとか、「何を読んでいるのか分からなくなる」理由をいくつか挙げることはできるが、かといって、それが不快なわけではない。

 文章の意味は分かるのに、何を読んでいるのか分からなくなる。文章の奥に何かがあるように思えるのだが、それがなかなか見えてこない。そのうちに、「花の咲く頃には」(『この道』収録)の言葉を借りると、「時間がほつれ、空間もほどけかかる」ような心地になる。そんな奇妙な小説は、普通何度も読まない。二度は読んでも、三度は読まない。しかし、古井作品には中毒性があり、繰り返し読みたくなる。良い読者ではないという自覚はある。それでも何度も読むうちに、ようやく自分の考えがまとまってきた。

聴覚だけの状態

 古井由吉の小説には、聴覚に関する話が頻繁に出てくる。より正確に言うと、聴覚だけの状態が文学的に表現されていることが多い。私が最初にそう感じたのは、初期の「妻隠」を読んだ時である。この作品では、もう物語も終わりかというところで、唐突に緊張の頂点が形成される。夜、病み上がりの主人公が寝床にいて、外には酒に酔った男たちがいる。男たちは猥歌を歌い、卑猥な話をしている。そんな中、主人公の妻がゴミを出しに行くのである。

「寿夫は寝床に戻った。聞き馴れたサンダルの音が窓の下にまわって畑にそって早足で遠ざかって行った。やがて遠くで、ターン、ターンとポリバケツのふちを打ちつけて底のゴミをあける音がした。それから物音が絶えて、あたりがまた闇一色の感じになった。その中からサンダルの音が響き出すのを、彼は寝床の中で耳をそば立てて待った。しかし足音はなかなか現れず、しばらくすると静かさの地平から、男たちの声がざわめき出てきた。喧嘩とも歓談ともつかない太い声につつまれて、ときどき女の声がやわらかくふくらむのが聞えた」
(「妻隠」)

 足音が消えたときの主人公の不安が伝わってくるようである。
 妻は男たちと言葉を交わし、その中の一人に酒を勧められる。そんなやりとりが危なげな雰囲気を漂わせながら続く。そして妻が酒を飲むところで、ようやく主人公は窓から外の様子を見る。その後、何かが起こりそうな気配は回避され、妻はアパートの部屋に戻ってくる。夫婦の日常にひそむ危うさのようなものを、こんな風に描いた小説を、私はそれまで読んだことがなく、妙に心に残ったものである。



 古井作品には、初期の頃から「耳」や「足音」という言葉が頻用されている。聴覚を拠り所とする傾向は、晩年まで変わることはなかった。というより、後期になるに従い、一層顕著になった。後期の「子供の行方」(『蜩の声』収録)には、「聴覚ばかりになるということほどおそろしいこともない」と書かれている。音が聞こえているうちは、まだいい。怖いのは、聴覚ばかりになっている状態での無音であり、静まりである。別の短編にはこんなことが書かれている。

「騒音に押し入られるままになっている人間にとって、ときたまはさまる静まりこそ、おそろしい。静まりとは言いながら内に狂躁の、おもむろな切迫のようなものをはらむ。内にふくらみかかる狂躁を出し抜くためにも、外へ向かって自分から躁がなくてはならない。取りあえず喋りまくる。人がいなければ何でもよいから音を立てる。誰もいない部屋にもどるとまずテレビをつける。まさに、沈黙を忌む」
(「蜩の声」)

 沈黙を忌むものは音を求める。「潮の変わり目」(『白暗淵』収録)に登場する男は、忙しいときに聾啞感につつまれることがあるらしい。無音に囚われた状態では自分がどこの何者ともつかなくなり、何をするかわからなくなると言う。そして、「この時ばかりは、日頃神経に障わることもある周囲の物音に耳をあずけて、音がそれぞれ遠近を平穏に守ってくれている間は、ほとんど至福の時に近い、と感歎させられる」のである。

 晩年の「この道」(『この道』収録)では、「一キロ足らず離れた環状線の、立体構造の陸橋をつぎつぎに越えて行く車の音」がやはり聴覚に拠った文章で描写されているが、決して不快な音としては書かれていない。どことなく音を求めている風ですらある。無音の不気味さというのは確かにある。「行方知れず」(『この道』収録)に、東日本大震災で津波が畑地に押し寄せ、それを上空から撮った無音の映像を見て、「音を断たれていることが、かえっておそろしく感じられた」と書かれているが、これは当時を知る人なら覚えがあるだろう。

 この傾向は2000年に刊行された短編集『聖耳』から強まったように思える。古井は1998年、1999年と目の手術をしているので、その影響もあるのだろう。「夜明けまで」では、目の手術を受けたことが語られている。結果は思わしくなく、己の視覚に限界を感じ、「しかし聴覚が新たに萌すような、明けるような、予感はあった。風が渡った」と結ばれる。聴覚の覚醒である。「聖耳」では、入院中の話から飛躍し、寝室から一里あまり隔たった女の泣き声を聞き、不吉なものを感じたという延喜帝の逸話が語られる。聴覚が導く文学の世界はあてどもない。


【関連サイト】
古井由吉 自撰作品
古井由吉 おびただしい足音 その2

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