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ジャック・レモン 〜変化を演じる名優〜

2021.02.15
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 ニューヨークの大手保険会社に勤める平凡なサラリーマン、バド(ジャック・レモン)は上役たちの情事のために自分のアパートの部屋を貸している。昇進をエサにされ、断れないのである。そんなある日、部長(フレッド・マクマレイ)の不倫相手が、バドの意中の人、エレベーターガールのフラン(シャーリー・マクレーン)だと知ってショックを受ける。しかもその夜、フランは部長との不倫に絶望し、バドの部屋で睡眠薬自殺を企てる。何も知らずに帰宅したバドは......。

 ビリー・ワイルダー監督のコメディ『アパートの鍵貸します』(1960年)のストーリーである。この作品で、出世欲はあるがお調子者で、能力もルックスも人並みのバドを演じたのが、名優ジャック・レモンだ。この映画の見所の一つは、バドが上役たちの不倫に手を貸してドタバタする前半と、真剣な恋に落ちる後半とのギャップであり、前半とは打って変わって部長に毅然とした態度をとるバドには、その辺の二枚目以上に凛々しいオーラが漂っていた。

 このバド役が象徴しているように、ジャック・レモンは変化を演じることを得意としていた。内面の変化だけでなく、外見を変化させる技にも長け、鮮やかな変装術で何度も観客を驚かせた。『お熱いのがお好き』(1959年)では、ギャング(ジョージ・ラフト)たちから逃れるために女装し、お金持ちの老人(ジョー・E・ブラウン)を夢中にさせ、だんだん性別に対する意識が混乱してくるところが傑作だったし、『あなただけ今晩は』(1963年)では、パリの堅物警官が失職して娼婦(シャーリー・マクレーン)のヒモになり、彼女に客を取らせないために、変装術を使って無茶な計画を実行に移すというドタバタ喜劇の役どころを完璧に演じきっていた。

 チリ・クーデターを扱った『ミッシング』(1982年)も素晴らしい。これはコメディではなくシリアスなドラマだ。1973年9月、チリでクーデターが起こり、アメリカ人の青年が行方不明となる。その後、父親がチリにやってきて、息子の妻(シシー・スペイセク)と共に探し回るという話だ。最初、保守的な父親は息子の反体制的な行動に理解を示さない。義娘との関係もギクシャクしている。しかし、徐々にクーデターの内情を知り、息子の安否が心配になってくると、心境が変化し、不安、怒り、悲しみ、父性愛が溢れてくる。それは燃えるような感情を観る者に植え付ける名演技だった。

 ジャック・レモンはもともとハーバード大学で科学を専攻していたが、戦後、プロの俳優になるべくニューヨークで研鑽を積んだ。映画デビューは1954年で、翌年には『ミスタア・ロバーツ』(1955年)でアカデミー助演男優賞を受賞、1959年には『お熱いのがお好き』に出演し、ビリー・ワイルダーのお気に入りとなった。その後も作品や監督に恵まれていたことは、代表作が1950年代から90年代にかけて満遍なくあることからも分かる。演技賞の方もアカデミー賞、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンなど大きな映画祭の賞は全て受賞している。

 これまでに挙げた作品以外の代表作を挙げておくと、コメディ物の『グレートレース』(1965年)、『おかしな二人』(1968年)。シリアス物の『酒とバラの日々』(1962年)、『セイブ・ザ・タイガー』(1973年)、『チャイナ・シンドローム』(1979年)、『摩天楼を夢みて』(1992年)。コメディともシリアスとも取れる『幸せはパリで』(1969年)と『マイ・ハート マイ・ラブ』(1980年)。観るべき作品はまだまだある。演技の幅が広く、さまざまな役を巧みに演じることができたので、絞るのが難しい。

 『幸せはパリで』は一晩で人生を一変させる男女の物語。主人公は証券マンのハワード。出世した彼はセレブのパーティに参加させられ、そこで社長の妻カトリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)と出会い、社長夫人とは知らずに、外に出ようと誘う。それぞれ結婚生活に幻滅している2人は、どこかアンニュイな雰囲気の中、惹かれ合い、離れがたくなる。これも前半と後半とで別人のようになる展開で、パーティ会場でおろおろする頼りない男から、一大決心をする精悍な男へと、演技の力でリアルに役柄を変化させている。

 同じく芸達者なウォルター・マッソーと共演した『おかしな二人』はニール・サイモンの舞台劇を映画化したもので、神経質なフィリックスと無精者オスカー(ウォルター・マッソー)の共同生活を描いている。フィリックスは潔癖症かつ自己中心的で、しかも悪意が全くない。食堂の冷房が強いと「耳鳴りがする」と言い、奇声を発し、耳管の通りを良くしようと試みる変人である。オチについては詳しく触れないが、奥さんから離婚を申し渡されて落ち込んでいた冒頭のシーンからは考えられないようなエンディングには、開いた口が塞がらない。

 円熟期(67歳)に出演した『摩天楼を夢みて』の原作も舞台劇。ベテラン不動産セールスマンのレーヴィンは営業成績が悪く、クビ寸前。しかし娘の入院費が必要なため辞められない。本社の人間に怒鳴られ、発破をかけられて心はボロボロ、それでも土砂降りの中、営業に出かけてゆく。そして追い詰められた末に......。その表情、全身に漂う悲壮感と焦燥感が物凄い。異様なまでに多い長台詞にも、喜怒哀楽の感情が絶妙に抑制された形で息づいている。圧倒的な演技だ。彼が登場すると、もう目が離せなくなる。

 立場が弱く、金と権力に屈するしかないサラリーマンが、これだけは譲れない、これだけは守りたいというものができた時、変化する。その状態を『アパートの鍵貸します』では「メンチュ」と呼んでいた。ドイツ語で「人間」という意味である。感情を殺して働いても、感情は死なない。おとなしい人はキレると怖いと言うが、ジャック・レモンが演じた人物たちも、こうと決めた時の変化の仕方が極端で、爆発力がある。そういう人間を演じさせて、彼の右に出るものはいない。
(阿部十三)


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[ジャック・レモン略歴]
1925年2月8日、アメリカのマサチューセッツ州生まれ。ハーバード大学卒業。戦争中は海軍に属していた。1953年にブロードウェイで注目され、1954年に映画デビュー。1955年に『ミスタア・ロバーツ』でアカデミー助演男優賞を受賞し、1960年の『アパートの鍵貸します』でスターとしての地位を確立した。1973年、『セイヴ・ザ・タイガー』でアカデミー主演男優賞を受賞。ウォルター・マッソーとのコンビでも知られ、コメディもシリアスもこなせる演技派俳優としての名声は高まる一方だったが、本人は自分に自信がなく、ストレス過多で、一時アルコールに依存していたことがあるという。2001年6月27日、癌により死去。息子、孫も俳優になった。