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谷崎潤一郎と川端康成を魅了した哀愁の美貌 〜有馬稲子について〜

2011.07.23
ARIMA-INEKO-PHOTO
 有馬稲子の美貌は宝塚時代から有名だった。ただ、その美しさには翳があり、笑顔の中にも愁いが漂っていて、それが単なる美人女優にはない複雑な魅力を彼女に付与している。東宝専属女優としての第1回主演作『ひまわり娘』を手がけた千葉泰樹監督も、有馬稲子の印象をこう語っていたという。「明るい感じの娘だと思っていたが、撮影が始まり、彼女を見つめていると、むしろ哀愁が濃いことを発見した」

 伯母に育てられた彼女の家庭の事情や、波瀾に富んだ人生については、『バラと痛恨の日々 有馬稲子自伝』に書いてあるので、ここではあまりふれない。この本の中でとくに印象的なのは、終戦後、反日感情が爆発していた釜山から決死の思いで引き揚げてきた時の話だ。イワシ船から黎明の日本大陸が見えた時、13歳の彼女は「祖国......そ、こ、く、と人が呼ぶその土地へ、私は帰ってきたのだ」と感動し、「この黄金色の夜明けは、自分の未来を象徴している」と感じた。実際、宝塚に入って美貌を讃えられ、東宝に入って華々しく宣伝され、そのキャリアは順風満帆であるかのように見えた。が、その陰に実父の暴力、家の借金、自身の不倫問題などがあったというから驚かされる。

 有馬稲子はデビュー時から言動が生意気だとマスコミから批判されていた。勉強がしたい、演技に集中したい、という態度をとればとるほど「女優のくせに生意気」と受け取られ、バッシングされた。『日本映画俳優全史 女優編』(社会思想社)にも、「彼女(有馬)ほどあちこちで反感を持たれ、マスコミその他で叩かれたことの多かった女優はいない」と書かれているくらいだから、アンチの数は相当多かったのだろう。

 有馬自身も気が強く、独立プロの作品に出演する際も東宝とやり合い、そのせいで仕事を干され、「ゴテネコ」というあだ名まで付けられている(愛称は「ネコ」)。1954年には「にんじんくらぶ」を岸惠子、久我美子と共に設立。五社協定の時代に、役者が会社に拘束されず、「自由な立場で良心的な作品に出演する」ことが出来る環境を作ろうとした。会社側にしてみれば手のかかる存在だったに違いない。ただ、その言動に理解を示す味方も少なからずいた。中でも川端康成は有馬のアドバイザー的存在だったようで、有馬が市川崑監督との不倫で悩んでいた時も相談に乗っていたという。

 もう一人のノーベル文学賞受賞者、大江健三郎とも交流がある。『バラと痛恨の日々』によると、きっかけは、まだ芥川賞作家になる前の大江が有馬に対する誤解に基づいて書いたコラムらしい。有馬はその内容に怒り、自ら出向いて大江に会い、誤解を正した。相手がマスコミであれ、会社の重役であれ、東大生であれ、妥協したくないのだ。そういう人なのである。

 こうして見ると、自己主張の強い人というイメージがあるが、女優としては監督の要求(命令)に応じて実に多彩な演技を披露している。小津安二郎の『東京暮色』、今井正の『夜の鼓』、内田吐夢の『浪花の恋の物語』、五所平之助の『わが愛』、渋谷実の『もず』......と代表作をざっと比べてみても、演技のスタイルが明確に異なり、それぞれ監督の色にきれいに染まっているから面白い。とりわけ撮影現場が壮絶な修羅場と化した『夜の鼓』は、今井監督のしごきに追いつめられ、自殺まで考えたが、結果として一世一代の名演をフィルムに刻むことが出来た。ちなみに谷崎潤一郎はこの作品で有馬稲子のファンになったようだ。

 2003年に『小津安二郎DVD-BOX』が発売された時、松竹の人の紹介で、ご本人にインタビューをしたことがある。その日、有馬さんはテレビ番組に出演するということで、局の食堂で軽食をとられている間にお話をうかがった。若僧の私がインタビュアーと知り、有馬さんはやや不安そうな顔をされていたが、私がファンであり、観られるだけの作品は観ていると伝えると、すぐに打ち解けて、いろいろなお話を聞かせてくださった。

 取材後、私が好きな有馬稲子出演作として五所監督の『雲がちぎれる時』を挙げると、「あれは駄作よ」と一蹴されたが、こちらが意見を述べると、「それなら観直してみようかな」と言っていた。『雲がちぎれる時』のヒロイン市枝は、「深刻な美貌」とでも呼びたくなるほど表情に重みがあり、暗い絶望を感じさせる。それと同時に、男の運命を狂わさずにはおかない「ファム・ファタール」の魔性も匂わせている。この映画の欠点は、仲代達矢と渡辺文雄が扮するGI。彼らが醸し出す違和感はどうしようもない。ただ、五所の演出は情緒に溢れながらも溺れず、必要以上にじめつくことなく、テンポも良い。ギターを使った芥川也寸志の音楽も魅力的だ。映画史に残る作品ではないかもしれないが、有馬稲子の出演作を語る上で忘れてはならない一本だと思う。
(阿部十三)


【関連サイト】
有馬稲子
有馬稲子(DVD)
有馬稲子『バラと痛恨の日々 有馬稲子自伝』
[有馬稲子略歴]
1932年4月3日大阪府生まれ。本名中西盛子。宝塚出身の伯母に育てられる。釜山で暮らすが、終戦後に引き揚げ、宝塚音楽学校に入学。1949年に『黄金の林檎』『南の哀愁』で初舞台。1953年東宝の専属女優に。1954年岸惠子、久我美子と「にんじんくらぶ」を設立。1955年松竹に移籍して活躍。1961年中村綿之助と結婚。1965年離婚。活動拠点を舞台に移し、劇団民藝で宇野重吉の指導を受ける。この頃、再婚するが後に離婚。劇団民藝脱退後は木村光一の指導を受け、1980年より『はなれ瞽女おりん』に出演。自身の代表作になり、海外公演も成功させる。1995年紫綬褒章受賞。