発掘!明治文学 松原岩五郎という男
2011.05.07
師走の寒空にジャンバーを頭から被り、まるで路に転がる死体のように眠る人々がいる。街全体が寝静まった丑三つ時に給食で余った牛乳を啜り、飲食店の残飯を漁って飢えを凌ぐ人々がいる。祭りで賑わう下町で、目を白く濁らせ襤褸を纏い周囲に悪臭を漂わせながら浮腫んだ足で徘徊する人々がいる。人気の無い金融機関のATMコーナーや古びた雑居ビルの片隅、マンションのエントランス等に入り込み休息を貪る人々がいる。資源ゴミを山のように回収し、駅のゴミ箱で雑誌を漁り、自動販売機の下を探って日銭を稼ぐ人々がいるーー。
時を遡ること約120年前の明治25年(1892年)。一人の新進気鋭の文学者が数年にわたり東京のスラム街に入り込み、雑報記者さながらにその筆舌に尽くしがたい現状を、怒りを込めた精細な筆致で国民新聞に連載した。その男の名を松原岩五郎と言う。
松原は慶応2年(1866年)、鳥取県淀江の造り酒屋の四男として生まれた。翌年父が亡くなり、間もなく母も亡くなった。生家は元来相当な大家であったがしだいに没落し、長兄の代で決定的なダメージを受けた。長兄は弱冠15歳で結婚し家督を継いだのだから無理も無い。岩五郎は長兄夫婦とともに家を支えた。酒代の集金や空樽の回収に奔走するなど家業の手伝いに明け暮れる日々に勉学もままならず、兄たち(次男・三男)から養子の身の辛さなどを聞くにつけ、岩五郎はしだいに家出への思いを募らせてゆく。
明治14年、15歳の岩五郎は苦心してためた26円の半分を世話になった義理の姉へ渡し、残り半分をふところに大阪へ走った。家出といっても、電車が整備されていない当時のこと。まだ徒歩がメインであり、行商人に同行したり、山賊に襲われたりと、苦難の連続であった。大阪では出版社の車引きをする傍ら、読書の習慣を養い、後の文筆活動の下地を作る。そして、明治16年(1883年)、17歳で東京に出て来る。
当時の東京は鹿鳴館開館、自由民権運動、文明開化といった華やかな表面と、度重なる不況、コレラの蔓延、窮民の増加といった裏面とのコントラストが甚だしく、上流富貴と下郎匹夫の格差は誰の目にも明らかであった。松原は下層社会の一員として車夫や行商など様々な職業に就きながら、夜は慶応義塾で学び、思想、人脈、金銭を蓄えていった。そしてついに、明治21年4月、満を持して『文明疑問』上編を自費出版する。本書は脈々と続いてきた庶民の生活・風俗・思想を全否定する当時の風潮に喝を入れるもので、急激な文明化の負の側面を明らかにした力作だったが、残念ながら世間にはあまり相手にされず、売れ行きも芳しくなかった。そのためか予定していた続編は頓挫してしまう。
こうした挫折にも負けず、松原は同年12月に友人内田魯庵の推薦で『女学雑誌』に「都の花素人評判」という辛口の文芸評論を寄稿。当時評判の良かった文芸雑誌『都の花』創刊号を一刀両断に切り捨てる。松原にかかれば二葉亭四迷の「めぐりあひ」も山田美妙の「花車」も現実社会を知らぬ書生のママゴトにしか過ぎなかった。その後、松原は本論をきっかけに内田の紹介で二葉亭と知り合い、文学に開眼する。そして、ディケンズ、ユーゴー、ゴーゴリ、ドストエフスキー、西鶴といった世界に名だたる社会派の文学者たるべく、二葉亭が当時日本文学界で唯一賞賛していた 幸田露伴に弟子入りする。
明治23年から翌年にかけて、松原は『好色二人息子』『かくし妻』『長者鑑』『寒村』と庶民をテーマにした西鶴流の新小説を続々と発表。露伴、紅葉、美妙、原抱一庵といった面々と並ぶ注目の新人として文壇に名乗りをあげる。その後も新聞『国会』の小説欄を露伴と共に担当しながら、同時に『国民新聞』へも小説を連載するなど、精力的な創作活動を行う。一方、設定がワンパターンになりがちな自身の小説に限界を感じていたのも事実で、明治25年10月に『都の花』に掲載された西鶴世話物流の「新長者鑑」は連載2回目で未完に終わっている。そして、同時期に創作された「心臓破裂」が民友社の懸賞で1等を獲得すると、それを区切りに国民新聞社へ入社。記者として、作家として、さらなる修行を積むべく、机上から再び現実社会へと乗り出す。
『国民新聞』では「東京雑祖」「二市談 東京と大阪」といった東京や東京人を論じたものも書いているが、やはり看板は、今までの経験を生かした貧民ルポルタージュや貧民をテーマにしたルポルタージュ小説であった。特に明治26年6月以降、計37回にわたったルポルタージュは気合の入り方が尋常ではなく、その意気込みは筆名を初期に使っていた「乾坤一布衣」に改めていることからもうかがえる。
「飢寒窟の代言人」としてその現状を赤裸々に綴っていった文章は世間の耳目を集め、喝采を浴びる。そこには、無味乾燥な単なる事実の羅列に留まらない、社会批判の精神やヒューマニティーが込められていた。暗黒社会の知られざる生活、そこに繰り広げられる人間ドラマを風格のある文体で目の前に展開していく手腕は、明治の西鶴、日本のユーゴーたる松原の面目躍如であった。
【主要参考文献】
山田博光「二葉亭と松原岩五郎・横山源之助」「明治の社会ルポルタージュ」(『国木田独歩論考』創世紀 1978年)
山田博光「松原岩五郎集」(『民友社文学集(一)』三・一書房 1984年)
柳田泉「古い記憶から(四)〜松原二十三階堂の社会文学〜」(『文学』 1960年3月)
立花雄一「解説」(松原岩五郎『最暗黒の東京』岩波文庫 1988年)
時を遡ること約120年前の明治25年(1892年)。一人の新進気鋭の文学者が数年にわたり東京のスラム街に入り込み、雑報記者さながらにその筆舌に尽くしがたい現状を、怒りを込めた精細な筆致で国民新聞に連載した。その男の名を松原岩五郎と言う。
松原は慶応2年(1866年)、鳥取県淀江の造り酒屋の四男として生まれた。翌年父が亡くなり、間もなく母も亡くなった。生家は元来相当な大家であったがしだいに没落し、長兄の代で決定的なダメージを受けた。長兄は弱冠15歳で結婚し家督を継いだのだから無理も無い。岩五郎は長兄夫婦とともに家を支えた。酒代の集金や空樽の回収に奔走するなど家業の手伝いに明け暮れる日々に勉学もままならず、兄たち(次男・三男)から養子の身の辛さなどを聞くにつけ、岩五郎はしだいに家出への思いを募らせてゆく。
明治14年、15歳の岩五郎は苦心してためた26円の半分を世話になった義理の姉へ渡し、残り半分をふところに大阪へ走った。家出といっても、電車が整備されていない当時のこと。まだ徒歩がメインであり、行商人に同行したり、山賊に襲われたりと、苦難の連続であった。大阪では出版社の車引きをする傍ら、読書の習慣を養い、後の文筆活動の下地を作る。そして、明治16年(1883年)、17歳で東京に出て来る。
当時の東京は鹿鳴館開館、自由民権運動、文明開化といった華やかな表面と、度重なる不況、コレラの蔓延、窮民の増加といった裏面とのコントラストが甚だしく、上流富貴と下郎匹夫の格差は誰の目にも明らかであった。松原は下層社会の一員として車夫や行商など様々な職業に就きながら、夜は慶応義塾で学び、思想、人脈、金銭を蓄えていった。そしてついに、明治21年4月、満を持して『文明疑問』上編を自費出版する。本書は脈々と続いてきた庶民の生活・風俗・思想を全否定する当時の風潮に喝を入れるもので、急激な文明化の負の側面を明らかにした力作だったが、残念ながら世間にはあまり相手にされず、売れ行きも芳しくなかった。そのためか予定していた続編は頓挫してしまう。
こうした挫折にも負けず、松原は同年12月に友人内田魯庵の推薦で『女学雑誌』に「都の花素人評判」という辛口の文芸評論を寄稿。当時評判の良かった文芸雑誌『都の花』創刊号を一刀両断に切り捨てる。松原にかかれば二葉亭四迷の「めぐりあひ」も山田美妙の「花車」も現実社会を知らぬ書生のママゴトにしか過ぎなかった。その後、松原は本論をきっかけに内田の紹介で二葉亭と知り合い、文学に開眼する。そして、ディケンズ、ユーゴー、ゴーゴリ、ドストエフスキー、西鶴といった世界に名だたる社会派の文学者たるべく、二葉亭が当時日本文学界で唯一賞賛していた 幸田露伴に弟子入りする。
明治23年から翌年にかけて、松原は『好色二人息子』『かくし妻』『長者鑑』『寒村』と庶民をテーマにした西鶴流の新小説を続々と発表。露伴、紅葉、美妙、原抱一庵といった面々と並ぶ注目の新人として文壇に名乗りをあげる。その後も新聞『国会』の小説欄を露伴と共に担当しながら、同時に『国民新聞』へも小説を連載するなど、精力的な創作活動を行う。一方、設定がワンパターンになりがちな自身の小説に限界を感じていたのも事実で、明治25年10月に『都の花』に掲載された西鶴世話物流の「新長者鑑」は連載2回目で未完に終わっている。そして、同時期に創作された「心臓破裂」が民友社の懸賞で1等を獲得すると、それを区切りに国民新聞社へ入社。記者として、作家として、さらなる修行を積むべく、机上から再び現実社会へと乗り出す。
『国民新聞』では「東京雑祖」「二市談 東京と大阪」といった東京や東京人を論じたものも書いているが、やはり看板は、今までの経験を生かした貧民ルポルタージュや貧民をテーマにしたルポルタージュ小説であった。特に明治26年6月以降、計37回にわたったルポルタージュは気合の入り方が尋常ではなく、その意気込みは筆名を初期に使っていた「乾坤一布衣」に改めていることからもうかがえる。
「飢寒窟の代言人」としてその現状を赤裸々に綴っていった文章は世間の耳目を集め、喝采を浴びる。そこには、無味乾燥な単なる事実の羅列に留まらない、社会批判の精神やヒューマニティーが込められていた。暗黒社会の知られざる生活、そこに繰り広げられる人間ドラマを風格のある文体で目の前に展開していく手腕は、明治の西鶴、日本のユーゴーたる松原の面目躍如であった。
(寺門仁志)
【主要参考文献】
山田博光「二葉亭と松原岩五郎・横山源之助」「明治の社会ルポルタージュ」(『国木田独歩論考』創世紀 1978年)
山田博光「松原岩五郎集」(『民友社文学集(一)』三・一書房 1984年)
柳田泉「古い記憶から(四)〜松原二十三階堂の社会文学〜」(『文学』 1960年3月)
立花雄一「解説」(松原岩五郎『最暗黒の東京』岩波文庫 1988年)
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