文化 CULTURE

桜荘の悲劇

2011.07.16
 「住んでいた部屋にお化けが出た」というような話はよく聞くが、僕はお化けなんかちっとも怖くない。僕が悩まされたアレに較べれば......。

 僕がかつて暮らしていたのは、松本零士の漫画にでも出てきそうな昭和臭ムンムンのアパートであった。築40年は経っている木造モルタルの2階。昇り降りには錆が浮きまくった鉄製の階段を使った。誰かがやって来るとカンカンカン〜という安っぽい音が響き渡り、部屋が不気味に揺れたものだ。人の訪問を敏感に知らせてくれるので、前向きに捉えるのならば防犯装置の一種と言えなくもなかった。間取りは6畳+キッチン、風呂、トイレ。オシャレな部分は欠片もなく、かなり狭苦しい。しかし、日当たりと風通しは極めて良好。最寄り駅からも近かった。建物が古いことを除けば、金回りがあまり良くない若者が暮らすには、それほど不自由はない部屋ではあった。

 とは言え、予想外の問題もあったのだ。頭を抱えたのは配達物が、あまりにもスムーズに届かなかったという点だ。原因は僕が暮らしていたアパートの名称〈桜荘〉にあった。何の変哲もないアパート名だが、同じ住所のブロック内に〈さくら荘〉という別のアパートがあったのは何故なのだろう? 悪いことに〈さくら荘〉の方が表通り側に面していたため、配達業者の大半が〈さくら荘〉の方へ届けに行ってしまった。職業柄、僕のところには資料が毎日のように届く。〈さくら荘〉の住民は、さぞかし迷惑だったことだろう。

 しかし、アレに較べれば、そんなトラブルは可愛いものであった。「アレって、どうせゴキブリでしょ」とか思ったあなたは甘い。僕が清潔好きだったからなのか、夏はサウナのように暑く、冬は冷凍庫のように寒い部屋の性質が生息に不向きだったからなのか、ゴキブリが出ることは極めて稀だったのだ。

 第一波は僕がフリーランスの文筆業を始める前、会社員時代に起こった。当時、音楽雑誌の編集者だった僕が、ヘトヘトになって真夜中に帰宅した時のことだ。ある大物ロックバンドの撮影現場を無事に終え、余った弁当を二つほど貰い受けたため、僕はかなり上機嫌であったと思う。部屋に入ると、僕は電灯を点ける前に大切な弁当をそっと床に置いた。すると、薄暗がりの中、視界の右隅に微かな違和感を覚えたのだ。床が動いている!?

 近づいた瞬間、僕は目を疑った。台所と風呂場の境目付近が黒く蠢いていた。あたかも意思を持った生き物のように......いや、それは紛れもなく生き物そのものであった。大量の蟻が床の上を這いまわっていたのだ。地上を歩行する働き蟻だけでなく、大型の羽蟻も混じっていた。羽蟻がブンブンと働き蟻の群れの回りを飛び回り、床の上で行進が繰り広げられる様は、羽根飾りを背負ったダンサーと大群衆がパレードするリオのカーニバルのようであった......というような描写を考えている余裕があったはずもなく、泣き喚きながら電灯を点けた僕は大量のティッシュを手に取り、蟻を退治し始めた。先述の通り、桜荘にはゴキブリが出なかったので、殺虫剤を持っていなかったのだ。恐れをなした蟻たちは瞬く間に退散し、姿を消していった。彼らの動きから察するに、どうやら風呂場の床下の木材の一部が腐っていて、そこに巣を作っているらしかった。

 翌日、僕は朝一番にアリの巣コロリを購入し、巣の出入り口らしき辺りに仕掛けた。その素晴らしい効果により、蟻との闘いは僕の完全勝利で終結した。数年後、またしても同様の事態が発生したが、僕は手慣れた調子で退治することが出来た。「室内だというのに何故こんなにも度々発生するのか?」ーー大きな謎は残ったが、それ以降、蟻が僕を悩ますことはなくなった。全ては終わったかに見えた。しかし......。

 やがて桜荘を離れる時がやって来た。もっと良い部屋に住めるくらいの収入は稼ぐようになっていたし、いい歳をしてボロアパートに住んでいると、何かと世間から不当な扱いを受けることも感じ始めていたからだ。僕は新しい部屋を見つけ、荷作りを始めた。引っ越しをするのは半月後のゴールデンウィーク明け。そんな頃、僕は午前中に銀行での用件を済ませて桜荘に戻って来た。

 ドアを開けて玄関へ入った瞬間、僕は静かな部屋の中に微かな気配とでも言うべきものを感じた。すると、一枚の小さな羽、昆虫の羽だと思しき透明の物体が部屋の中に差し込む陽の光を浴びながら、ゆっくりと僕の目の前を舞い降りていったのだ。何事? 台所へと目を向けた瞬間、僕は信じられない光景を見た。無数の小さな虫が羽ばたきながら台所の窓へと向かっていた。窓ガラスの表面に貼り着いているもの、アルミサッシのレール部分にゴッソリと重なり合っているもの、床を這い回っているもの......その累計は一体どれほどだったのだろうか? 数百匹、もしかしたら千匹以上はいたのかもしれない。いや、そもそも数えることなんて全く無意味であった。なにしろ絶え間なく後続隊が飛来していたのだから。彼らが皆等しく向かうのは南向きの台所の窓。昆虫は光に集まる習性があるからだろう。昆虫群の源は風呂場だった。壁の漆喰が剥がれた隙間からゾロゾロと這い出しては、次々飛び立っていた。風呂場の床の水溜りで溺れ死んでいた物体を調べて、僕は敵の正体を漸く掴んだ。白蟻であった。
 数があまりにも多かったため、以前のようにティッシュで対処することは最早ナンセンス。僕は掃除機で一気にやつらを吸い込み、窓を開け放った。新たに飛来し続ける白蟻達は、窓の外に広がる春の青空へと消えて行った。
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 やるべきことを終え、暫くは放心状態だったと思う。しかし、放置するわけにもゆかず、僕は不動産屋に連絡をした。「白蟻が発生しています! 室内に!」と。駆除業者を手配してくれることにはなったが、数日はかかりそうだという。結局、駆除作業は僕が引っ越した後に行われることになった。つまり、僕は桜荘の残りの日々を白蟻と共に過ごすという事態に陥ったのだ。

 ご存知の方もいると思うが、昆虫の死骸などを巣に運び込んで食べる〈蟻〉と木材を食い荒らす〈白蟻〉は全く別の昆虫。だから〈蟻〉を対象としたアリの巣コロリは、やつらには通用しない。僕はとりあえずドラッグストアで殺虫剤を購入し、白蟻が飛び出してくる場所に目がけて噴霧した。そして、日中は台所の窓を開け放して過ごすことにしたのだ。数日間、白蟻飛行隊の門出が日中の僕の部屋で続いた。引っ越し当日までそんな部屋で仕事をひたすら続け、原稿を何本も書き上げたことを思い出すと泣けてくる。

 新しい部屋に移った日の感動と安堵を、僕は一生忘れないだろう。鉄筋のマンション、エアコンが二台もある、蛇口をひねれば好きなだけお湯が出る、家具も揃えた、高級なオーディオも買った、そして白蟻はもういない! あの白蟻発生は、生意気にも引っ越すことになった僕に対する桜荘からの復讐だったのかもしれないと、ふと思うことがある。

 この原稿を書くにあたり、僕は桜荘へ行ってみた。住んでいた二階の部屋を見上げてみると、色鮮やかな洗濯ばさみが物干し竿で揺れていた。既に新たな住民が住んでいるのだ。あの後、白蟻は無事に退治されたのだろう。ほっとした。そして、楽しかったことよりも悲しかったこと、悔しかったことの方が多かった桜荘での日々の記憶が蘇り、柄にもなく少し胸が熱くなった。

 久しぶりの桜荘からの去り際、僕は表通りに面している方の別のアパート、〈さくら荘〉をふと見やった。〈チェリーハウス〉。目に飛び込んで来たのは見慣れない名を記した札であった。〈さくら荘〉は〈チェリーハウス〉と改名されていた。建物は以前と寸分違わぬ古めかしいアパートだったが......。抱えていたセンチメンタルな想いはあっけなく砕け散り、ただただ自責の念が募った。「俺のせいだ!」ーー僕が住んでいた期間に誤配のトラブルが続発したため、〈さくら荘〉の大家が改名へと追い込まれたのだろう。
(田中大)

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