音楽 CLASSIC

ベートーヴェン 交響曲第8番

2014.08.04
急進性が生む音楽的スリル

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 ベートーヴェンが完成させた9つの交響曲のうち、第8番だけは誰にも献呈されていない。この事実は誰かのために作曲されたわけではないことを意味するのだろうか。それとも献呈する相手がいなくなったことを意味するのだろうか。

 作曲時期は1812年。第7番をほぼ書き上げた後、保養地テープリッツ滞在中に着手し、年内に完成させたとみられている(初演は1814年2月27日)。ベートーヴェンがテープリッツを訪れたのは1812年7月5日のことで、滞在時期は「不滅の恋人」への手紙を書いた日付(1812年7月6日、7日)とも重なっている。「不滅の恋人」が誰なのかは謎だが(アントニー・ブレンターノ説が今日では有力である)、その恋が激しいものだったことは次の文章からも分かる。「完全にあなたと一緒か、あるいはまったくそうでないか、いずれかでしか私は生きられない」ーーこういった事情を踏まえると、ベートーヴェンを第8番の作曲へと駆り立てたのは、ごく個人的な感情だったのではないかという見方をすることも出来る。

 この第8番は、人気曲とは到底言いがたい。もしかするとベートーヴェンの交響曲中、最も聴かれる回数が少ない作品なのではないか。深みに欠けるとか、創作意欲の減退を示していると言われることさえある。かつてロベルト・シューマンは、「英雄」と「運命」の間にある第4番を「2人の北欧の巨人にはさまれたギリシャの乙女」と評したが、同じような位置にある第8番に対して、誰かそのような文学的表現を献じたことがあるのか、私は寡聞にして知らない。

 しかし、ここには第7番の舞踏的性格をより徹底化した急進性があり、音楽的スリルがある。律動的な要素をこれでもかと重ねることにより、えもいわれぬ高揚感を生み出すことに成功している。両端楽章で畳み掛けるように迫る音型は、ひとつのことを極限まで突き詰めれば、たとえ明るい雰囲気の中で行われようと、それは狂気に至る、という真理を示すものにほかならない。むしろ曲調の明るさが、よけいに作曲家のアイディアの極端さを浮き上がらせるのである。こういう音楽を知る者は、ミニマル・ミュージックを聴いても特に衝撃を受けることはない。

 第1楽章の冒頭は直球勝負である。3拍子の第1拍からいきなりトゥッティで主題が提示され、それが巧妙な転調を経ながら繰り返される。多用されるスフォルツァンド、リズムの連なりをばっさり断つゲネラルパウゼも印象的だ。第2楽章のスケルツォは落ち着きをもって開始されるが、最後は急激に速度を上げ、なだれ落ちるように閉じられる。リズムの連射のようなこの終曲部分は、第8番全体の性格をあらわすものとして見逃せない。第3楽章はテンポ・ディ・メヌエット。古典的なメヌエットではないが、トリオにあたる中間部のホルンとクラリネットが奏でる主題は美しく、憩いの間のような空間を作り出している。激しいリズムに支配された第4楽章はさながら嵐であり、各パートのアンサンブルとリズムが摩擦を起こし、ひりひりした緊張感を生む。休符を用いてリズムを引き締め、379小節からクライマックスに突入する流れは最大の聴きどころといえる。

 なお、規則的なリズムを刻む第2楽章の主題は、長い間、メトロノームの発明者メルツェルのために書かれた『タタタ・カノン』(メトロノームを模したカノン)の転用とみられていた。が、これはベートーヴェンの秘書アントン・シンドラーによるでっち上げで、このカノン自体もシンドラーが第2楽章を剽窃して書いた作品であることが発覚し、現在では完全否定されている。

 第8番を聴いていつも感じるのは、ベートーヴェン自身の激しい鼓動である。既述したように、当時ベートーヴェンは苦しくも情熱的な恋をしていた。それは甘いメロディーを紡ぐ余裕すら与えない急迫した恋だった。そんな作曲家が保養地に身を置き、己を顧みて、暴れる鼓動を楽譜に刻んだような印象を私は抱くのである。この作品を献呈する相手がいるとしたら、「不滅の恋人」こそふさわしいと思う。

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 私が好んで聴くのは、ヴィクトル・デ・サバタがニューヨーク・フィルを指揮した1951年のライヴ音源である。これは比倫を絶する演奏と呼ぶべきだろう。燃えれば燃えるほど明晰になる響きと徹底して適切なアゴーギクは、第8番の地味なイメージを覆すに違いない。人為とも思えないような終楽章の迫力には畏怖の念すら抱く。ヘルベルト・ブロムシュテットがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した1978年の録音は、正攻法の堂々たる演奏。アンサンブルがみずみずしく、いつ聴いても、まっさらな気持ちで作品と向き合える。
 実際にコンサートで聴いてきた中では、フランス・ブリュッヘンが新日本フィルを振った時の演奏(2011年2月19日)が最良で、第8番が次なる大作への布石であることを再認識させる意味深いものだった。残念ながら、あの深みは18世紀オーケストラを指揮した1989年のライヴ音源にはない。「第九への布石」という意味では、セルジウ・チェリビダッケとミュンヘン・フィルの組み合わせによるライヴ音源が示唆に富んでいるが、作品本来の明るさは消えている。


【関連サイト】
Beethoven:Symphony No.8(CD)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
[1770.12.16-1827.3.26]
交響曲第8番 ヘ長調 作品93

【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
ヴィクトル・デ・サバタ指揮
ニューヨーク・フィルハーモニック
録音:1951年3月18日(ライヴ)

ヘルベルト・ブロムシュテット指揮
シュターツカペレ・ドレスデン
録音:1978年

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