ブルックナー 交響曲第6番
2015.09.01
美しきパノラマ
ブルックナーの交響曲第6番は1879年9月に着手され、1881年9月3日に完成した。初演は1883年2月11日に行われたが、第2楽章と第3楽章が演奏されただけで、全曲が披露されたのは作曲家の死後、1899年2月26日のことである。その際、指揮を務めたのはグスタフ・マーラーだった。
1879年から1881年といえば、交響曲第4番「ロマンティック」の終楽章の改訂および初演が行われ、『テ・デウム』が書き始められた時期でもある。ちなみに、9月3日は誕生日の前日。ブルックナーは57歳になろうとしていた。
熱狂的なファンを持つブルックナーの交響曲の中でも、第6番は人気の面でも知名度の面でも高いとは言えない。地味だと言う人もいるし、第7番への橋渡し的な作品とみる人もいるようだ。しかし、第6番はそれ自体で紛うかたなき傑作であり、知名度が低いというのも、きちんと聴かれる機会が少ないからにすぎない。
第1楽章はマエストーソ。ヴァイオリンが高音域でリズムを刻む中、低弦で第1主題が奏でられ、何かが起こりそうな予兆に覆われた後、この主題が華々しく炸裂する。これは「ロマンティック」の主題に似ているが、どことなくオリエンタルな雰囲気があり、一大絵巻の幕開けにふさわしい劇的な力強さを持っている。第2主題は内向的な性格で、なめらかで優美な流れを作り、第3主題はffで呈示され、勢いを促進させる。第1主題をベースにした長いコーダの美しさは感動的だが、リズムの取り方が難しく、理想的な演奏は少ない。
第2楽章はアダージョ。ソナタ形式で、第1主題と第3主題の物悲しさと、第2主題の幸福感が大きな光の中で調和しているような不思議な感覚に包まれる。ブルックナーにしては短くまとめられているが、音楽がもたらすスケールの大きさ、高揚感ともに緩徐楽章の域を超えている。
第3楽章はスケルツォ。低弦がリズムを刻む中、木管とヴァイオリンの旋律が鋭角的にぶつかり、絡み合い、金管の炸裂を誘発する。トリオはピッツィカートで始まり、牧歌的なホルンの響きから木管の美しい楽句へとつなぎ、ブルックナーらしい筆運びで魅了する。
第4楽章はヴァイオリンの愁いに満ちたメロディーで始まるが、金管の鋭い響きが繰り返され、一気にオーケストラ全体が熱気を帯びる。この28小節に及ぶ序奏の後、第1主題が登場する。この主題が潤滑油ないしカンフル剤のようになり、音楽のゆるやかな停滞を阻むように前へ前へと突進し、最終的に巨大な流れを形成し、第1楽章の第1主題が輝かしく復活して幕を閉じる。
この作品には「ブルックナー休止」がない。これには彼なりの意図があったものと思われる。「ブルックナー休止」がないことと、第4楽章にワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の動機が出てくるのは、無関係ではないはずだ。つまり、『トリスタンとイゾルデ』のように終止しない音楽というのが作曲家の頭の中にあったのではないか。少なくとも私にはそのように思える。
私がこの作品と出会ったのは、情報の少ない田舎に住んでいた高校生の頃。当時聴いたのは、ヨーゼフ・カイルベルトとベルリン・フィルによる録音で、第1楽章冒頭の雰囲気にホルストの『惑星』の「火星」に通じるものを感じ、第1主題に映画『アラビアのロレンス』のテーマの原型を認め、これは相当ポピュラーな作品に違いないと思っていた。なので、人気がないとか知名度がないと言われてもピンとこなかった。
たしかに、第6番は自ずから広がってゆくような音楽の宇宙的なスケール、終楽章のコーダの神々しさの点では、ブルックナーの交響曲の中で上位にあるとは言えない。ただし、全体を通してメロディアスで、溢れる楽想を大胆に連結させ、パノラマのようにしてみせたこの作品を、私は偏愛している。かつて朝比奈隆は『音楽の手帖』のインタビューで「(ブルックナーは)音楽の心みたいなものでは、シューベルトに近いんじゃないかと思います」と語っていたが、私は第6番を聴きながら、シューベルトとワーグナーの精神を取り込もうとする意欲を感じるのである。
オットー・クレンペラーやオイゲン・ヨッフム、ヘルベルト・フォン・カラヤンやセルジウ・チェリビダッケ、ゲオルグ・ショルティやレナード・バーンスタインといった巨匠たちがこの作品を録音している。最も古い録音はおそらくヴィルヘルム・フルトヴェングラーとベルリン・フィルによる1943年の演奏だが、残念なことに第1楽章の音源が欠落している。
チェリビダッケがミュンヘン・フィルを振ったときの演奏(1991年ライヴ録音)は、この作品が持つ美しさ、構成の精妙さをほぼ完璧に伝えるもので、アンサンブルの素晴らしさに言葉を失う。この人が指揮するときはいつもそうだが、金管がいくら鳴り響こうと煩わしさを全く感じさせない。ヨッフムとコンセルトヘボウ管による演奏(1980年ライヴ録音)は、スケールの大きさと深みが魅力で、この第1楽章と第2楽章を一度でも聴けば、「規模が小さい」と言われる第6番のイメージが一変するはずだ。聴き手の精神を縛るよりも解放する演奏とでも言おうか。
ミヒャエル・ギーレンとバーデンバーデン・フライブルク南西ドイツ放送響による演奏(2001年録音)は、細かなアーティキュレーションで魅せながらも、各パートの歌わせ方は明瞭さの一点張りではなく、むしろロマンティック。きっちりやりすぎて窮屈になることはない。第3楽章はそれが顕著である。速めのテンポで演奏される第2楽章も、唯美的なようでいて、優しさがこもっている。スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、ザールブリュッケン放送響による演奏(1997年録音)は、鋭い洞察の賜物。アンサンブルが結構ずれているところもあるのだが、それすらも計算ではないかと思いたくなるほど巧みなフレーズ処理とみずみずしい響きで、一気に聴かせる。この作品を地味だと思い込んでいる人にこそ耳を傾けてもらいたい録音だ。
【関連サイト】
Anton Bruckner
ブルックナーの交響曲第6番は1879年9月に着手され、1881年9月3日に完成した。初演は1883年2月11日に行われたが、第2楽章と第3楽章が演奏されただけで、全曲が披露されたのは作曲家の死後、1899年2月26日のことである。その際、指揮を務めたのはグスタフ・マーラーだった。
1879年から1881年といえば、交響曲第4番「ロマンティック」の終楽章の改訂および初演が行われ、『テ・デウム』が書き始められた時期でもある。ちなみに、9月3日は誕生日の前日。ブルックナーは57歳になろうとしていた。
熱狂的なファンを持つブルックナーの交響曲の中でも、第6番は人気の面でも知名度の面でも高いとは言えない。地味だと言う人もいるし、第7番への橋渡し的な作品とみる人もいるようだ。しかし、第6番はそれ自体で紛うかたなき傑作であり、知名度が低いというのも、きちんと聴かれる機会が少ないからにすぎない。
第1楽章はマエストーソ。ヴァイオリンが高音域でリズムを刻む中、低弦で第1主題が奏でられ、何かが起こりそうな予兆に覆われた後、この主題が華々しく炸裂する。これは「ロマンティック」の主題に似ているが、どことなくオリエンタルな雰囲気があり、一大絵巻の幕開けにふさわしい劇的な力強さを持っている。第2主題は内向的な性格で、なめらかで優美な流れを作り、第3主題はffで呈示され、勢いを促進させる。第1主題をベースにした長いコーダの美しさは感動的だが、リズムの取り方が難しく、理想的な演奏は少ない。
第2楽章はアダージョ。ソナタ形式で、第1主題と第3主題の物悲しさと、第2主題の幸福感が大きな光の中で調和しているような不思議な感覚に包まれる。ブルックナーにしては短くまとめられているが、音楽がもたらすスケールの大きさ、高揚感ともに緩徐楽章の域を超えている。
第3楽章はスケルツォ。低弦がリズムを刻む中、木管とヴァイオリンの旋律が鋭角的にぶつかり、絡み合い、金管の炸裂を誘発する。トリオはピッツィカートで始まり、牧歌的なホルンの響きから木管の美しい楽句へとつなぎ、ブルックナーらしい筆運びで魅了する。
第4楽章はヴァイオリンの愁いに満ちたメロディーで始まるが、金管の鋭い響きが繰り返され、一気にオーケストラ全体が熱気を帯びる。この28小節に及ぶ序奏の後、第1主題が登場する。この主題が潤滑油ないしカンフル剤のようになり、音楽のゆるやかな停滞を阻むように前へ前へと突進し、最終的に巨大な流れを形成し、第1楽章の第1主題が輝かしく復活して幕を閉じる。
この作品には「ブルックナー休止」がない。これには彼なりの意図があったものと思われる。「ブルックナー休止」がないことと、第4楽章にワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の動機が出てくるのは、無関係ではないはずだ。つまり、『トリスタンとイゾルデ』のように終止しない音楽というのが作曲家の頭の中にあったのではないか。少なくとも私にはそのように思える。
私がこの作品と出会ったのは、情報の少ない田舎に住んでいた高校生の頃。当時聴いたのは、ヨーゼフ・カイルベルトとベルリン・フィルによる録音で、第1楽章冒頭の雰囲気にホルストの『惑星』の「火星」に通じるものを感じ、第1主題に映画『アラビアのロレンス』のテーマの原型を認め、これは相当ポピュラーな作品に違いないと思っていた。なので、人気がないとか知名度がないと言われてもピンとこなかった。
たしかに、第6番は自ずから広がってゆくような音楽の宇宙的なスケール、終楽章のコーダの神々しさの点では、ブルックナーの交響曲の中で上位にあるとは言えない。ただし、全体を通してメロディアスで、溢れる楽想を大胆に連結させ、パノラマのようにしてみせたこの作品を、私は偏愛している。かつて朝比奈隆は『音楽の手帖』のインタビューで「(ブルックナーは)音楽の心みたいなものでは、シューベルトに近いんじゃないかと思います」と語っていたが、私は第6番を聴きながら、シューベルトとワーグナーの精神を取り込もうとする意欲を感じるのである。
オットー・クレンペラーやオイゲン・ヨッフム、ヘルベルト・フォン・カラヤンやセルジウ・チェリビダッケ、ゲオルグ・ショルティやレナード・バーンスタインといった巨匠たちがこの作品を録音している。最も古い録音はおそらくヴィルヘルム・フルトヴェングラーとベルリン・フィルによる1943年の演奏だが、残念なことに第1楽章の音源が欠落している。
チェリビダッケがミュンヘン・フィルを振ったときの演奏(1991年ライヴ録音)は、この作品が持つ美しさ、構成の精妙さをほぼ完璧に伝えるもので、アンサンブルの素晴らしさに言葉を失う。この人が指揮するときはいつもそうだが、金管がいくら鳴り響こうと煩わしさを全く感じさせない。ヨッフムとコンセルトヘボウ管による演奏(1980年ライヴ録音)は、スケールの大きさと深みが魅力で、この第1楽章と第2楽章を一度でも聴けば、「規模が小さい」と言われる第6番のイメージが一変するはずだ。聴き手の精神を縛るよりも解放する演奏とでも言おうか。
ミヒャエル・ギーレンとバーデンバーデン・フライブルク南西ドイツ放送響による演奏(2001年録音)は、細かなアーティキュレーションで魅せながらも、各パートの歌わせ方は明瞭さの一点張りではなく、むしろロマンティック。きっちりやりすぎて窮屈になることはない。第3楽章はそれが顕著である。速めのテンポで演奏される第2楽章も、唯美的なようでいて、優しさがこもっている。スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮、ザールブリュッケン放送響による演奏(1997年録音)は、鋭い洞察の賜物。アンサンブルが結構ずれているところもあるのだが、それすらも計算ではないかと思いたくなるほど巧みなフレーズ処理とみずみずしい響きで、一気に聴かせる。この作品を地味だと思い込んでいる人にこそ耳を傾けてもらいたい録音だ。
(阿部十三)
【関連サイト】
Anton Bruckner
アントン・ブルックナー
[1824.9.4-1896.10.11]
交響曲第6番 イ長調
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
セルジウ・チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1991年(ライヴ)
スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮
ザールブリュッケン放送交響楽団
録音:1997年
[1824.9.4-1896.10.11]
交響曲第6番 イ長調
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
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録音:1991年(ライヴ)
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ザールブリュッケン放送交響楽団
録音:1997年
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