音楽 CLASSIC

シューベルト 「ガニュメート」

2020.12.11
より高く、広い空へ

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 「歌曲の王」と呼ばれるシューベルトはその短い生涯に600曲以上の歌曲(リート)を作曲した。『冬の旅』、『美しき水車小屋の娘』などの歌曲集、あるいは「魔王」、「野ばら」、「楽に寄す」、「シルヴィアに」、「セレナード」、「糸を紡ぐグレートヒェン」など、全てシューベルトの筆から生まれたものである。ドイツリートで「これは」という名曲の多くは、シューベルトによって書かれたと言っても過言ではない。

 歌曲を書き始めたのは10代の前半からで、14歳の時に曲をつけた「ハガールの嘆き」(詩はシュッキング)が最初期の作品と言われている。そして、その3年後、17歳の時にゲーテの「糸を紡ぐグレートヒェン」に曲をつけて才能を開花させた。これ以降、10代のシューベルトはゲーテの詩に霊感を得て、一作でも書ければ永遠に名が残るような傑作を次々と書き上げる。

 「ガニュメート」は1817年に作曲された。20歳の時の作品で、詩はゲーテ作。ガニュメートはギリシャ神話に出てくる美少年のことで、ガニメデとも表記される。彼はトロイア王トロースの子だが、鷲になったゼウスにさらわれて、オリンポスで催される酒宴の給仕となったとされる。

 しかし、この詩では、ガニュメートの心の中に誘拐された悲しみは少しもない。春の空、天高く連れられて、大自然と神の力に包まれ、高揚感を抱いている。

朝の陽のきらめきを浴びて、なんとお前は
私をめぐって燃えたつことだろう、
春よ、いとおしいものよ!
愛のよろこびを千倍もにして
私の心に突き迫ってくる、
お前の永遠の温かさが、
神聖な感情が、
つきることのない美しさが!

私はこの腕に
お前を抱きたい!

ああ、お前の胸に
思いこがれて身を横たえれば、
お前の花が、お前の草が
私の心に押し入ってくる。
この胸の燃える渇きを
さましてくれるのは
やさしい朝のそよ風、
その風の中で、恋するうぐいすが
霧けむる谷間から私を呼んでいる。

私は行く、私は行く!
どこへ? ああ、どこへ?
上へ! ひたすら上をめざして。
雲はただよいながら
くだり、雲は
胸こがす愛に身をかがめる。
私に! この私に!
雲のふところに抱かれて、
上へ!
雲を抱き、雲に抱かれて!
上へ、御身の胸をめざして、
ものみなを愛したもう父よ!
(西野茂雄 訳)


 シューベルトの作品に「楽興の時(原題:Moments Musicaux)」というピアノ曲集がある。「楽興」は辞書に載っていない言葉だが、楽が興る、楽が湧く、楽が閃くといった意味が込められているようで、音楽が生まれる瞬間の尊さを感じさせる。いかにもシューベルトにふさわしい文学的な表現だ。というのも、この作曲家が生んだ傑作には、次々と湧き出る楽想を惜しげもなく紡ぎ出したものが目立つからである。おそらく、「このフレーズはもったいないから後にとっておこう」などと思いもせず、そのとき書きたい曲に注いでいたのではないだろうか。

 「ガニュメート」でも、最初のフレーズからは想像もできないような音楽が展開する。それくらい多様なメロディーがつながっている。しかし、シューベルトの中では、取捨選択の余地のない、有機的なリズムに結ばれた単体の楽想だったのだろう。決して思いつきで作曲しているのではなく、無理をしてつなげているのでもなく、彼自身にもコントロールできない力が働き、精神の深いところから、こういう旋律が湧いてくるのである。あまりにもダイレクトに精神と直結したその音楽は、当然、明るくなることもあれば、暗くなることもある。暗くなるときは聴く者をゾッとさせるほど暗い。「未完成」や「死と乙女」などが良い例だ。

 「ガニュメート」は情熱的で狂おしいところはあるが暗くはない。曲は変イ長調で始まり、変ト長調、ホ長調、ヘ長調という具合に転調を繰り返す。テンポも激しく変化するが、不自然なよどみがない。ピアノによる伴奏部もポイントで、穏やかな心情から、熱い情熱まで雄弁に表現し、早鐘を打つような心臓の音まで響き出す。詩と歌とピアノがそれぞれ役割を持ち、立体的な音のドラマを作り上げているのだ。その音楽的な効果は絶大で、耳を傾けていると体が浮いて飛翔し、目の前に広大なパノラマは拓けてゆくような気分になる。

 驚くほどスケールが大きく、単に「歌曲を聴いた」というレベルにおさまらない体験をさせる作品だと思う。私はこれを初めて聴いた時、視界が揺らぐほどの高揚感を味わい、ドキドキした。おそらく、この歌曲にシューベルトが託したのは、高次元のものへの強い憧れであり、より深くて大きなものと調和したいという切なる願望と決意だったのだろう。「私は行く! どこへ?」のフレーズなど、若き作曲家の感情の高まりが生々しいほどに伝わってくる。

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 私がリートの面白さを知り、興味を抱いたのは「ガニュメート」を聴いてからである。人生経験がなければ楽しめないという内容でもないし、わかりやすい歌曲だと思う。最初に聴いたのは、エリザベート・シュヴァルツコップが歌ったもの(1952年録音)。ピアノを弾いているのは巨匠エドウィン・フィッシャーである。ニュアンス豊かだが、説明的なくどさがなく、自然な流れを失わない美しい伴奏だ。シュヴァルツコップの歌い方は繊細で、声のトーンが切々としていて胸に迫るものがある。

 メゾのクリスタ・ルートヴィヒの歌唱(1961年)は、深みのある美声で、艶やかで美しい。感情の高まりを示すところは力強く、表現の起伏が大きいところも良い。美声といえばソプラノのイルムガルト・ゼーフリート(1951年録音)も忘れてはならない。抑揚の付け方も素晴らしく、洗練されている。ただ、テンポがかなり速く、あっけない。男声ではヘルマン・プライが歌ったもの(1960年録音)がうまい。情感と品のあるバリトンで、ドイツ語が美しく響いている。発声にもフレージングにもわざとらしさがなくて好ましい。


【関連サイト】
Schubert 「Ganymed」 D.544(NAXOS)
フランツ・シューベルト
[1797.1.31-1828.11.19]
歌曲「ガニュメート」 D.544

【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
ジェフリー・パーソンズ(ピアノ)
録音:1961年

ヘルマン・プライ(バリトン)
ジェラルド・ムーア(ピアノ)
録音:1960年

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