ワーグナー 舞台神聖祝典劇『パルジファル』
2015.09.23
聖金曜日に輝く聖杯
リヒャルト・ワーグナーの『パルジファル』は死の前年、1882年1月13日に完成され、7月26日にバイロイト音楽祭で初演された作品である。当初はバイロイト音楽祭のみで上演され、それ以外の場所での上演は禁じられていたが、1913年12月31日深夜に解禁され、世界各地で上演されるようになった。
ワーグナーがバイロイト以外での上演を望まなかったのは、理想的に構想された作品が不道徳な劇場や聴衆の手に委ねられている現状に不満を抱き、「せめて最も神聖なこの最後の作品だけでも、世のオペラが辿りがちな運命から守った方がよいのではないか」(1880年9月28日付 ルートヴィヒ2世宛書簡)と考えたからである。このように作品の聖性を保つために門外不出とする姿勢は、かつてグレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』を複写厳禁とした教会の命令を思い起こさせる。
物語の舞台は中世。聖杯と聖槍を守護するモンサルヴァート城は、今危機にさらされている。偉大な王ティトゥレルに追放された魔法使いクリングゾールの策略により、ティトゥレルの息子アンフォルタスが魔性の女の誘惑に陥り、聖槍を奪われた挙げ句、槍で脇腹を刺され重傷を負ったのである。
第一幕で老騎士グルネマンツがその経緯を小姓たちに説明し、私たちは物語の背景を知る。聖杯を通じて告げられた主の予言は、「同情によりて知を得る清らかなる愚か者。われの選びたるその者を待て」である。しかし、いつまで待てばよいのだろうか。アンフォルタスは肉体と精神の苦痛のため、絶望している。アンフォルタスの痛みを和らげるために薬を持ってきた謎の女クンドリは、まだその正体を明らかにしていない。
と、そこへ白鳥を射落とした少年が現れる。少年は自分の名前も過去も忘れている。グルネマンツはもしやと思い、少年を聖餐式に連れて行くが、聖杯を見ても、苦しみながら儀式を執り行うアンフォルタスを見ても、少年は何の反応も示さない。グルネマンツは失望し、少年を城から追い出す。
第二幕はクリングゾールの魔法の城と、魔の花園が舞台。聖槍を手に入れたクリングゾールは、聖杯も我が物にしようとしている。彼は眠っているクンドリを目覚めさせる。実は、クンドリはかつて十字架を背負ってゆくキリストを嘲笑した女だった。以来、彼女は魔性の女として、また、罪を悔いる女として、時空をさまよい、真の贖罪と救済を得なければならない身となり、いまだそれを得られずにいた。クリングゾールに利用され、アンフォルタスを誘惑したのも彼女だった。
モンサルヴァート城を追い出された少年が魔城に向かってくる。クリングゾールはこの少年が愚かさという盾に守られた極めて危険な敵であることを見抜き、魔の花園で花の乙女たちに誘惑させる。しかし少年は動じない。そのとき、「パルジファル(清らかな愚か者の意)」と呼ぶ声がする。少年はそれが自分の名前であることを思い出す。呼んだのはクンドリである。クンドリは記憶を失ったパルジファルの前歴を詳しく語って聞かせる。彼が突然姿を消したせいで、母親ヘルツェライデ(心の悩みの意)が悲しみ、傷心のあまり死んだことも。この話を聞いたパルジファルは嘆き、苦しむ。それを慰めるようにして、クンドリは彼を愛の虜にしようとするが、キスをされたとき、パルジファルの中にアンフォルタスに対する同情がはっきりと芽生え、覚醒する。彼はクンドリを退け、クリングゾールが放った聖槍を頭上で止め、魔城を崩壊させる。
第三幕はティトゥレル王の領内にある野原と、モンサルヴァート城内が舞台。第二幕からだいぶ時間が経過している。隠者となった老騎士グルネマンツが、春の花咲く美しい野で、倒れているクンドリを見つける。そこへ聖槍を持った騎士が現れる。クンドリに呪いをかけられ、各地をさまよい続けたパルジファルは、グルネマンツと出会ったことで、自分がようやく来るべき場所に来たことを知る。グルネマンツはその聖槍を見て、奇蹟が起こったことを知り、パルジファルこそが救世主であることを悟る。聖金曜日の奇蹟により、辺りの草花はいっそう美しく見える。かつてパルジファルから肉体的に拒まれ、彼を呪ったクンドリの様子も穏やかである。
モンサルヴァート城内は暗く重々しい。ティトゥレル王が亡くなったのだ。息子アンフォルタスはひたすら己の死を願っている。聖杯の覆いを取って儀式を進めることもできない。グルネマンツとクンドリに伴われて城内に入ったパルジファルは、聖槍の先でアンフォルタスの脇腹にふれ、傷を癒す。そして、「聖杯はもはや隠されているときではない」と言い、厨子を開かせる。クンドリはパルジファルを見つめながら、ゆっくりと倒れて息を引き取る。彼女の長く苦しい彷徨はこうして終わりを告げた。パルジファルは祈る者たちの上に輝く聖杯をかざし、幕が閉じられる。
最初から最後まで美しい音楽が波打ち、時に高潮することはあっても、過剰な表現はとらない。メンデルスゾーンの「宗教改革」でもお馴染みの「ドレスデン・アーメン」が効果的に使われ、神聖な雰囲気を作り出している。第一幕の聖餐式で反復されるコーラスは壮行会で歌われる唱歌のようで異質な印象を受けるが、第三幕の「聖金曜日の音楽」は身も心も永遠にその中に埋没させてしまいたくなるほどの美しさだ。
音楽の素晴らしさはさておき、物語自体はいろいろ考えさせられる内容である。イエスの体を貫いた聖槍は男性器の象徴、その血を受けた聖杯は女性器の象徴とする説があるが、『パルジファル』では快楽のためのセックスは否定されている。禁欲の意思が讃えられ、童貞の種別化が行われる。平たく言えば、パルジファルは清らかな童貞、クリングゾールは腹黒い童貞という具合である。一方、女性たちは肉欲、堕落のアイコンと化している。「男性と女性が強く影響し合う関係にあること」と「女性が死ぬこと」はワーグナーのパターンに当てはまるが、ヒロインの犠牲や献身を描いたそれまでの作品とは、趣が大きく異なる。
実生活では多くの女性たちとの快楽に溺れ、「キリスト教は芸術とは無縁の存在」と書いたこともあるワーグナーがこのような物語を綴ったことに違和感を抱く人は少なくない。ピエール・ブーレーズの証言によると、ワーグナー作品のすぐれた指揮者であったオットー・クレンペラーは、「偽宗教的なガラクタの山」と酷評していたらしい。
しかし、そもそもワーグナー自身、この物語が孕んでいる問題点ーー議論を招く要素に、合理的な解決法を与えようとしていなかったのではないか。『パルジファル』の論理では、そこで起こることはすべて「神の思し召し」とされ、聖杯の儀式に収斂されることで一件落着となる。パルジファルが記憶を失い、家を飛び出し、親が悲嘆に暮れて死ぬのも、神の思し召しである。神意を前にした者に選択の余地はない。その力の大きさを象徴するかのように、音楽はあらゆるものを包括し、矛盾なく、淀むこともなく、ある意味容赦なく進行する。
私が『パルジファル』を聴くたびに思うのは、ワーグナーが「聖金曜日(Karfreitag)」に付与しようとした強力な聖性である。イエスが十字架に架けられた金曜日は、人々に救いと恵みが与えられた神聖な日である。それは19世紀以降、俗に「13日の金曜日」と呼ばれるようになった日で、受難の日であり、悲劇の日でもあるが、ワーグナーはやや偏執的なまでに「神聖な日」としての側面を強調する。こうした意図は、彼が自分と縁の深い「13」という数字に固執していたことと無関係ではないだろう。『パルジファル』を急いで仕上げたのも、その日がちょうど13日の金曜日だったからだと言われている。
作品の宗教的性格ゆえ、多くの演奏はテンポをゆったりとさせる傾向があるが、ワーグナーは遅いテンポを拒否していた。初演のリハーサルでは、指揮のヘルマン・レーヴィに「もっと速く、ぐずぐずするんじゃない」と何度も命じていたという。ピエール・ブーレーズが1970年にバイロイト音楽祭で振ったときのライヴ録音は、このエピソードを踏まえた上で、テンポを速めに保ち、一切の緩慢さを排除し、美しい音響のプリズムを形成している。クンドリ役のギネス・ジョーンズの熱演は私にはやりすぎに思えるが、演奏全体を通して聴きやすい。
ただ、私自身は『パルジファル』に聴きやすさや分かりやすさを求めているわけではなく、聖杯伝説の世界にのめり込めるような音楽的空間を求めている。それを踏まえた上で言うと、ハンス・クナッパーツブッシュの指揮で聴く方がしっくりくる。クナはバイロイト音楽祭再開時の1951年から1964年まで、毎回この音楽祭の『パルジファル』を任されていた人で(1953年のみ不参加)、ライヴ録音の数も多い。特に有名なのは1951年と1962年の録音だ。音楽のみならず、霊的な空気まで伝えるようなその指揮には感服するほかない。が、贅沢な悩みであることは承知の上で、細かいところで歌手や演奏の出来に不満を感じる。総合的には、1954年のライヴが最上だと思う。歌手のコンディションも良く、テンションが弛緩するところは皆無で、緊張感と威厳があり、派手な表現に走ることもないし、テンポの遅さも気にならない。第二幕、第三幕では、気迫のこもったフレージングにたびたび感動させられる。もうひとつ、ルドルフ・ケンペが1959年にコヴェントガーデンで指揮したときのライヴ録音も雰囲気たっぷりの名演奏。音質が悪くて聴きづらいが、とてつもない美演であったことは想像できる。
[参考文献]
アッティラ・チャンパイ、ティートマル・ホラント編『ワーグナー パルジファル』(音楽之友社 1988年7月)
吉田真『作曲家◎人と作品 ワーグナー』(音楽之友社 2005年1月)
テオドール・W・アドルノ『ヴァーグナー試論』(作品社 2012年3月)
アラン・バディウ『ワーグナー論』(青土社 2012年8月)
【関連サイト】
Richard Wagner Opera
リヒャルト・ワーグナーの『パルジファル』は死の前年、1882年1月13日に完成され、7月26日にバイロイト音楽祭で初演された作品である。当初はバイロイト音楽祭のみで上演され、それ以外の場所での上演は禁じられていたが、1913年12月31日深夜に解禁され、世界各地で上演されるようになった。
ワーグナーがバイロイト以外での上演を望まなかったのは、理想的に構想された作品が不道徳な劇場や聴衆の手に委ねられている現状に不満を抱き、「せめて最も神聖なこの最後の作品だけでも、世のオペラが辿りがちな運命から守った方がよいのではないか」(1880年9月28日付 ルートヴィヒ2世宛書簡)と考えたからである。このように作品の聖性を保つために門外不出とする姿勢は、かつてグレゴリオ・アレグリの『ミゼレーレ』を複写厳禁とした教会の命令を思い起こさせる。
物語の舞台は中世。聖杯と聖槍を守護するモンサルヴァート城は、今危機にさらされている。偉大な王ティトゥレルに追放された魔法使いクリングゾールの策略により、ティトゥレルの息子アンフォルタスが魔性の女の誘惑に陥り、聖槍を奪われた挙げ句、槍で脇腹を刺され重傷を負ったのである。
第一幕で老騎士グルネマンツがその経緯を小姓たちに説明し、私たちは物語の背景を知る。聖杯を通じて告げられた主の予言は、「同情によりて知を得る清らかなる愚か者。われの選びたるその者を待て」である。しかし、いつまで待てばよいのだろうか。アンフォルタスは肉体と精神の苦痛のため、絶望している。アンフォルタスの痛みを和らげるために薬を持ってきた謎の女クンドリは、まだその正体を明らかにしていない。
と、そこへ白鳥を射落とした少年が現れる。少年は自分の名前も過去も忘れている。グルネマンツはもしやと思い、少年を聖餐式に連れて行くが、聖杯を見ても、苦しみながら儀式を執り行うアンフォルタスを見ても、少年は何の反応も示さない。グルネマンツは失望し、少年を城から追い出す。
第二幕はクリングゾールの魔法の城と、魔の花園が舞台。聖槍を手に入れたクリングゾールは、聖杯も我が物にしようとしている。彼は眠っているクンドリを目覚めさせる。実は、クンドリはかつて十字架を背負ってゆくキリストを嘲笑した女だった。以来、彼女は魔性の女として、また、罪を悔いる女として、時空をさまよい、真の贖罪と救済を得なければならない身となり、いまだそれを得られずにいた。クリングゾールに利用され、アンフォルタスを誘惑したのも彼女だった。
モンサルヴァート城を追い出された少年が魔城に向かってくる。クリングゾールはこの少年が愚かさという盾に守られた極めて危険な敵であることを見抜き、魔の花園で花の乙女たちに誘惑させる。しかし少年は動じない。そのとき、「パルジファル(清らかな愚か者の意)」と呼ぶ声がする。少年はそれが自分の名前であることを思い出す。呼んだのはクンドリである。クンドリは記憶を失ったパルジファルの前歴を詳しく語って聞かせる。彼が突然姿を消したせいで、母親ヘルツェライデ(心の悩みの意)が悲しみ、傷心のあまり死んだことも。この話を聞いたパルジファルは嘆き、苦しむ。それを慰めるようにして、クンドリは彼を愛の虜にしようとするが、キスをされたとき、パルジファルの中にアンフォルタスに対する同情がはっきりと芽生え、覚醒する。彼はクンドリを退け、クリングゾールが放った聖槍を頭上で止め、魔城を崩壊させる。
第三幕はティトゥレル王の領内にある野原と、モンサルヴァート城内が舞台。第二幕からだいぶ時間が経過している。隠者となった老騎士グルネマンツが、春の花咲く美しい野で、倒れているクンドリを見つける。そこへ聖槍を持った騎士が現れる。クンドリに呪いをかけられ、各地をさまよい続けたパルジファルは、グルネマンツと出会ったことで、自分がようやく来るべき場所に来たことを知る。グルネマンツはその聖槍を見て、奇蹟が起こったことを知り、パルジファルこそが救世主であることを悟る。聖金曜日の奇蹟により、辺りの草花はいっそう美しく見える。かつてパルジファルから肉体的に拒まれ、彼を呪ったクンドリの様子も穏やかである。
モンサルヴァート城内は暗く重々しい。ティトゥレル王が亡くなったのだ。息子アンフォルタスはひたすら己の死を願っている。聖杯の覆いを取って儀式を進めることもできない。グルネマンツとクンドリに伴われて城内に入ったパルジファルは、聖槍の先でアンフォルタスの脇腹にふれ、傷を癒す。そして、「聖杯はもはや隠されているときではない」と言い、厨子を開かせる。クンドリはパルジファルを見つめながら、ゆっくりと倒れて息を引き取る。彼女の長く苦しい彷徨はこうして終わりを告げた。パルジファルは祈る者たちの上に輝く聖杯をかざし、幕が閉じられる。
最初から最後まで美しい音楽が波打ち、時に高潮することはあっても、過剰な表現はとらない。メンデルスゾーンの「宗教改革」でもお馴染みの「ドレスデン・アーメン」が効果的に使われ、神聖な雰囲気を作り出している。第一幕の聖餐式で反復されるコーラスは壮行会で歌われる唱歌のようで異質な印象を受けるが、第三幕の「聖金曜日の音楽」は身も心も永遠にその中に埋没させてしまいたくなるほどの美しさだ。
音楽の素晴らしさはさておき、物語自体はいろいろ考えさせられる内容である。イエスの体を貫いた聖槍は男性器の象徴、その血を受けた聖杯は女性器の象徴とする説があるが、『パルジファル』では快楽のためのセックスは否定されている。禁欲の意思が讃えられ、童貞の種別化が行われる。平たく言えば、パルジファルは清らかな童貞、クリングゾールは腹黒い童貞という具合である。一方、女性たちは肉欲、堕落のアイコンと化している。「男性と女性が強く影響し合う関係にあること」と「女性が死ぬこと」はワーグナーのパターンに当てはまるが、ヒロインの犠牲や献身を描いたそれまでの作品とは、趣が大きく異なる。
実生活では多くの女性たちとの快楽に溺れ、「キリスト教は芸術とは無縁の存在」と書いたこともあるワーグナーがこのような物語を綴ったことに違和感を抱く人は少なくない。ピエール・ブーレーズの証言によると、ワーグナー作品のすぐれた指揮者であったオットー・クレンペラーは、「偽宗教的なガラクタの山」と酷評していたらしい。
しかし、そもそもワーグナー自身、この物語が孕んでいる問題点ーー議論を招く要素に、合理的な解決法を与えようとしていなかったのではないか。『パルジファル』の論理では、そこで起こることはすべて「神の思し召し」とされ、聖杯の儀式に収斂されることで一件落着となる。パルジファルが記憶を失い、家を飛び出し、親が悲嘆に暮れて死ぬのも、神の思し召しである。神意を前にした者に選択の余地はない。その力の大きさを象徴するかのように、音楽はあらゆるものを包括し、矛盾なく、淀むこともなく、ある意味容赦なく進行する。
私が『パルジファル』を聴くたびに思うのは、ワーグナーが「聖金曜日(Karfreitag)」に付与しようとした強力な聖性である。イエスが十字架に架けられた金曜日は、人々に救いと恵みが与えられた神聖な日である。それは19世紀以降、俗に「13日の金曜日」と呼ばれるようになった日で、受難の日であり、悲劇の日でもあるが、ワーグナーはやや偏執的なまでに「神聖な日」としての側面を強調する。こうした意図は、彼が自分と縁の深い「13」という数字に固執していたことと無関係ではないだろう。『パルジファル』を急いで仕上げたのも、その日がちょうど13日の金曜日だったからだと言われている。
作品の宗教的性格ゆえ、多くの演奏はテンポをゆったりとさせる傾向があるが、ワーグナーは遅いテンポを拒否していた。初演のリハーサルでは、指揮のヘルマン・レーヴィに「もっと速く、ぐずぐずするんじゃない」と何度も命じていたという。ピエール・ブーレーズが1970年にバイロイト音楽祭で振ったときのライヴ録音は、このエピソードを踏まえた上で、テンポを速めに保ち、一切の緩慢さを排除し、美しい音響のプリズムを形成している。クンドリ役のギネス・ジョーンズの熱演は私にはやりすぎに思えるが、演奏全体を通して聴きやすい。
ただ、私自身は『パルジファル』に聴きやすさや分かりやすさを求めているわけではなく、聖杯伝説の世界にのめり込めるような音楽的空間を求めている。それを踏まえた上で言うと、ハンス・クナッパーツブッシュの指揮で聴く方がしっくりくる。クナはバイロイト音楽祭再開時の1951年から1964年まで、毎回この音楽祭の『パルジファル』を任されていた人で(1953年のみ不参加)、ライヴ録音の数も多い。特に有名なのは1951年と1962年の録音だ。音楽のみならず、霊的な空気まで伝えるようなその指揮には感服するほかない。が、贅沢な悩みであることは承知の上で、細かいところで歌手や演奏の出来に不満を感じる。総合的には、1954年のライヴが最上だと思う。歌手のコンディションも良く、テンションが弛緩するところは皆無で、緊張感と威厳があり、派手な表現に走ることもないし、テンポの遅さも気にならない。第二幕、第三幕では、気迫のこもったフレージングにたびたび感動させられる。もうひとつ、ルドルフ・ケンペが1959年にコヴェントガーデンで指揮したときのライヴ録音も雰囲気たっぷりの名演奏。音質が悪くて聴きづらいが、とてつもない美演であったことは想像できる。
(阿部十三)
[参考文献]
アッティラ・チャンパイ、ティートマル・ホラント編『ワーグナー パルジファル』(音楽之友社 1988年7月)
吉田真『作曲家◎人と作品 ワーグナー』(音楽之友社 2005年1月)
テオドール・W・アドルノ『ヴァーグナー試論』(作品社 2012年3月)
アラン・バディウ『ワーグナー論』(青土社 2012年8月)
【関連サイト】
Richard Wagner Opera
リヒャルト・ワーグナー
[1813.5.22-1883.2.13]
舞台神聖祝典劇『パルジファル』
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン、ヨーゼフ・グラインドル
マルタ・メードル、ハンス・ホッター他
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮
バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団
録音:1954年(ライヴ)
ジェイムズ・キング、フランツ・クラス
ギネス・ジョーンズ、トマス・スチュワート他
ピエール・ブーレーズ指揮
バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団
録音:1970年(ライヴ)
[1813.5.22-1883.2.13]
舞台神聖祝典劇『パルジファル』
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン、ヨーゼフ・グラインドル
マルタ・メードル、ハンス・ホッター他
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮
バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団
録音:1954年(ライヴ)
ジェイムズ・キング、フランツ・クラス
ギネス・ジョーンズ、トマス・スチュワート他
ピエール・ブーレーズ指揮
バイロイト祝祭管弦楽団、合唱団
録音:1970年(ライヴ)
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