ブーランジェ カンタータ『ファウストとエレーヌ』
2016.02.25
恋してはいけない美女に恋したファウストの悲劇
リリ・ブーランジェは女性として初めてローマ賞グランプリを獲得し、1918年に24歳の若さで亡くなった作曲家である。幼い頃から病弱だったようで、姉のナディアによると、「彼女は自分の寿命が短く、限られた時間しかないことを自覚していた。今こうしてそれを語る私たちよりも遥かに冷静に、自らの死を予知していた」という。
父エルネストは過去にローマ賞グランプリを受賞した作曲家、母ライサはロシアの貴族。ブーランジェが作曲家を志したのは16歳のときで、まず彼女を指導したのは、やはり作曲の才能に恵まれていた姉ナディアだった。まもなく姉の手に余る力量を示したブーランジェは、ジョルジュ・コサード、ポール・ヴィダルによるレッスンを受けるようになり、弱冠19歳で『ファウストとエレーヌ』を書き上げるまでになった。そして1913年、この作品がローマ賞でグランプリを受賞したことで、「リリ・ブーランジェ」の名は世に知れ渡ったのである。
ブーランジェの作品で最も有名なのは、「深き淵より」で知られる『詩篇130番』。スケールが大きく、荘厳な響きを持ち、構成にも隙がない。『ピエ・イエズ』は死の床で書かれたもの。美しく繊細な作品で、高みへと向かう魂の静かな浮揚が感じられる。管弦楽と合唱の両方を巧みに扱う能力を持っていたブーランジェの念願は、メーテルリンク原作のオペラを完成させることだったが、それは叶わなかった。惜しまれるのは、このオペラを書けなかったことと、活動期間が第一次世界大戦と重なったことである。戦時中の精神的・肉体的疲労が彼女の病身に及ぼした影響の大きさは計り知れない。
既述したように、『ファウストとエレーヌ』は19歳の頃の作品だがとんでもない傑作で、ベルリオーズやドビュッシーのように、フランスの作曲家に時折みられる規格外の天才の一人であったことが分かる。そこにはワーグナーもいれば、セザール・フランクもいる。ベルリオーズの色彩もある。一部オリエンタルな雰囲気もある。そして、それら全てが合わさって圧倒的にドラマティックなのだ。
『ファウスト』にインスピレーションを得て書かれたテキストは、ウジェーヌ・アドニスによるもの。夢の中で見たトロイのヘレン(エレーヌ)に恋したファウストが、メフィストの力を借りて、ヘレンを現世によみがえらせる話である。
ファウストが「時を超えて来たれ(Viens à travers les temps, Viens à travers les âges)」と唱える厳かなフレーズは、まさにセザール・フランクの交響曲を想起させ、その後メフィストが「これはお前(ファウスト)の最後の願いになってしまう恐れがある」と言い、ヘレンを冥界から現世に戻らせる。「循環形式」が物語上で機能しているかのようだ。
よみがえったヘレンは、ファウストから告白されても、「これ以上自分のために犠牲者を出したくない」と躊躇するが、やがて相手の情熱にのみこまれ、束の間愛し合う。そのとき、不穏な気配が漂い、メフィストが「ヘレンのために命を落とした兵士たちの亡霊が近づいている」と警告する。愛の力で危機を乗り越えようとするファウストとヘレン。しかし、かつてトロイ戦争の犠牲となった亡霊たちは、彼女が現世で再び愛を得ることを許さない。このせめぎ合いの場面がクライマックスである。結果的に、亡霊たちは嵐のように凄まじい力でファウストからヘレンを奪い、そのまま姿を消す。メフィストは神の怒りを表すような威嚇的な響きをバックに「我らに災いあり」と歌い、全曲が結ばれる。
自由な想像力を駆使して綴られた話だが、ブーランジェはそれ以上に大きな想像力の翼を広げて音符を連ね、登場人物に生命を授け、背景に色彩をつけ、空気に温度を与え、迫真性を付与している。亡霊たちがファウストとヘレンを取り囲むあたりは、あたかも合唱が使われているような生々しい迫力があり、卓越した管弦楽書法で聴き手を牽引する。エンディングは少々あっさりしているが、ブーランジェの天才ぶりが豊潤な音楽性をもって示された傑作で、個人的には『詩篇130番』よりも好みである。
姉のナディア・ブーランジェは言わずと知れた高名な教育者。指揮者として妹の作品を取り上げたこともあるが、残念ながら『ファウストとエレーヌ』の録音はない。その代わり、彼女の弟子にあたるヤン・パスカル・トルトゥリエ(ポール・トルトゥリエの息子)が録音している。これは入門盤としてお薦めできるものだ。明快なタクトで作品世界を浮き上がらせ、ドラマティックな響きを堪能させる好演だと思う。もう一点、やはりナディア弟子だった名指揮者イーゴリ・マルケヴィッチの録音もある。峻厳なマルケヴィッチにしてはクライマックス部分のアンサンブルがやや緩めだが、歌手のキャスティング含め全体的に満足のいく出来ばえである。ただ、いかんせん録音の種類が少ないので、今後さらなる名演奏と出会う日が来ることを期待したい。
[引用文献]
ブルーノ・モンサンジョン『ナディア・ブーランジェとの対話』(1992年7月 音楽之友社)
リリ・ブーランジェは女性として初めてローマ賞グランプリを獲得し、1918年に24歳の若さで亡くなった作曲家である。幼い頃から病弱だったようで、姉のナディアによると、「彼女は自分の寿命が短く、限られた時間しかないことを自覚していた。今こうしてそれを語る私たちよりも遥かに冷静に、自らの死を予知していた」という。
父エルネストは過去にローマ賞グランプリを受賞した作曲家、母ライサはロシアの貴族。ブーランジェが作曲家を志したのは16歳のときで、まず彼女を指導したのは、やはり作曲の才能に恵まれていた姉ナディアだった。まもなく姉の手に余る力量を示したブーランジェは、ジョルジュ・コサード、ポール・ヴィダルによるレッスンを受けるようになり、弱冠19歳で『ファウストとエレーヌ』を書き上げるまでになった。そして1913年、この作品がローマ賞でグランプリを受賞したことで、「リリ・ブーランジェ」の名は世に知れ渡ったのである。
ブーランジェの作品で最も有名なのは、「深き淵より」で知られる『詩篇130番』。スケールが大きく、荘厳な響きを持ち、構成にも隙がない。『ピエ・イエズ』は死の床で書かれたもの。美しく繊細な作品で、高みへと向かう魂の静かな浮揚が感じられる。管弦楽と合唱の両方を巧みに扱う能力を持っていたブーランジェの念願は、メーテルリンク原作のオペラを完成させることだったが、それは叶わなかった。惜しまれるのは、このオペラを書けなかったことと、活動期間が第一次世界大戦と重なったことである。戦時中の精神的・肉体的疲労が彼女の病身に及ぼした影響の大きさは計り知れない。
既述したように、『ファウストとエレーヌ』は19歳の頃の作品だがとんでもない傑作で、ベルリオーズやドビュッシーのように、フランスの作曲家に時折みられる規格外の天才の一人であったことが分かる。そこにはワーグナーもいれば、セザール・フランクもいる。ベルリオーズの色彩もある。一部オリエンタルな雰囲気もある。そして、それら全てが合わさって圧倒的にドラマティックなのだ。
『ファウスト』にインスピレーションを得て書かれたテキストは、ウジェーヌ・アドニスによるもの。夢の中で見たトロイのヘレン(エレーヌ)に恋したファウストが、メフィストの力を借りて、ヘレンを現世によみがえらせる話である。
ファウストが「時を超えて来たれ(Viens à travers les temps, Viens à travers les âges)」と唱える厳かなフレーズは、まさにセザール・フランクの交響曲を想起させ、その後メフィストが「これはお前(ファウスト)の最後の願いになってしまう恐れがある」と言い、ヘレンを冥界から現世に戻らせる。「循環形式」が物語上で機能しているかのようだ。
よみがえったヘレンは、ファウストから告白されても、「これ以上自分のために犠牲者を出したくない」と躊躇するが、やがて相手の情熱にのみこまれ、束の間愛し合う。そのとき、不穏な気配が漂い、メフィストが「ヘレンのために命を落とした兵士たちの亡霊が近づいている」と警告する。愛の力で危機を乗り越えようとするファウストとヘレン。しかし、かつてトロイ戦争の犠牲となった亡霊たちは、彼女が現世で再び愛を得ることを許さない。このせめぎ合いの場面がクライマックスである。結果的に、亡霊たちは嵐のように凄まじい力でファウストからヘレンを奪い、そのまま姿を消す。メフィストは神の怒りを表すような威嚇的な響きをバックに「我らに災いあり」と歌い、全曲が結ばれる。
自由な想像力を駆使して綴られた話だが、ブーランジェはそれ以上に大きな想像力の翼を広げて音符を連ね、登場人物に生命を授け、背景に色彩をつけ、空気に温度を与え、迫真性を付与している。亡霊たちがファウストとヘレンを取り囲むあたりは、あたかも合唱が使われているような生々しい迫力があり、卓越した管弦楽書法で聴き手を牽引する。エンディングは少々あっさりしているが、ブーランジェの天才ぶりが豊潤な音楽性をもって示された傑作で、個人的には『詩篇130番』よりも好みである。
姉のナディア・ブーランジェは言わずと知れた高名な教育者。指揮者として妹の作品を取り上げたこともあるが、残念ながら『ファウストとエレーヌ』の録音はない。その代わり、彼女の弟子にあたるヤン・パスカル・トルトゥリエ(ポール・トルトゥリエの息子)が録音している。これは入門盤としてお薦めできるものだ。明快なタクトで作品世界を浮き上がらせ、ドラマティックな響きを堪能させる好演だと思う。もう一点、やはりナディア弟子だった名指揮者イーゴリ・マルケヴィッチの録音もある。峻厳なマルケヴィッチにしてはクライマックス部分のアンサンブルがやや緩めだが、歌手のキャスティング含め全体的に満足のいく出来ばえである。ただ、いかんせん録音の種類が少ないので、今後さらなる名演奏と出会う日が来ることを期待したい。
(阿部十三)
[引用文献]
ブルーノ・モンサンジョン『ナディア・ブーランジェとの対話』(1992年7月 音楽之友社)
リリ・ブーランジェ
[1893.8.21-1918.3.15]
カンタータ『ファウストとエレーヌ』
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮
BBCフィルハーモニック
録音:1999年5月
イーゴリ・マルケヴィッチ指揮
モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団
録音:1977年6月
[1893.8.21-1918.3.15]
カンタータ『ファウストとエレーヌ』
【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
ヤン・パスカル・トルトゥリエ指揮
BBCフィルハーモニック
録音:1999年5月
イーゴリ・マルケヴィッチ指揮
モンテ・カルロ国立歌劇場管弦楽団
録音:1977年6月
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