音楽 CLASSIC

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第23番「熱情」

2019.02.04
名は体を表す

beethoven 23 j2
 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第23番は1804年から1805年にかけて作曲されたとみられている。「熱情(Appassionata)」という題は作曲者の死後、ハンブルクの出版社クランツによって付けられたものだが、まさに熱情をそのまま音楽に置き換えたような作品なので、おそらく今日でも、この作品を初めて聴く人は、オブラートに包まれていない激しい感情の波形や強度に戸惑いを覚えるのではないだろうか。

 1804年から1805年はいわゆる「傑作の森」の初期にあたり、交響曲第3番「英雄」や「ワルトシュタイン・ソナタ」が書き上げられ、交響曲第5番「運命」の作曲が進められていた時期である。これらの作品の中で「熱情」に最も近いのは「運命」だろう。すでに指摘されていることだが、堅固な構成を持ち、第1主題を何度も繰り返して聴き手を牽引するところなど、作風的には1808年に完成した「運命」につながると言える。

 第1楽章はアレグロ・アッサイ。まず印象的なトリルを持つ第1主題がピアニッシモで2度繰り返され、さらにトリルのみ2度繰り返された後、暗色の感情が爆発したかのように音の洪水が押し寄せてくる。しかし、第2主題は第1主題と類似していながら穏やかであたたかみがあり、激しさで押すばかりでなく、静と動を落ち着きなく行き来し、ほとんど躁鬱状態のような波形を作り出す。随所にあらわれるトリルはただの装飾ではなく、緊張感や切迫感を増幅させる上で絶大な効果を上げており、当時としては大胆かつ斬新な用いられ方だったのではないかと推察される。

 第2楽章はアンダンテ・コン・モート。激情の世界から一転してコラール風の主題が静かに奏でられ、それに3つの変奏が続き、最後にまた冒頭の主題が回想される。この楽章は第1楽章に横溢していた感情の聖化とも、祈りの音楽とも言えそうだが、コラール風の主題を構成する要素には、次の第3楽章冒頭の連打へとつながる萌芽がすでに見てとれる。

 第2楽章からアタッカで突入する第3楽章はアレグロ・マ・ノン・トロッポ。減七和音が連打され、勢いよく闘争の音楽が始まる。ヘ短調、ハ短調、変ロ短調の燃えるような旋律が緊密な構成の中に詰まっているが、第1楽章のように不安定な起伏を描くのではなく、目指すところに向かい驀進している印象がある。その速度はコーダで頂点に達し、最後はアルペッジョの嵐を巻き起こして雪崩れ込むように曲を閉じる。

 装飾的な要素ですら驚くほど真摯な音にしてしまうのがベートーヴェンであり、「熱情」はその代表例と言える。それにしても、第1楽章は異常な心理状態から生まれた音楽を、ソナタ形式の器に合わせてきれいに整えることなく強引にはめ込んだような趣があり、その創作動機には形式の方を己の感情に従わせる挑戦的な意味合いもあったのではないかと想像したくなる。なお、この作品はフランツ・フォン・ブルンヴィク伯爵に献呈された。ピアノ・ソナタ第24番を献呈されたテレーゼはフランツの姉、テレーゼ以上にベートーヴェンと親密だったとされるヨゼフィーネは妹である。

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 録音では、アリーヌ・ヴァン・バレンツェンの演奏(1957年頃録音)が、冴えた技巧と表現力で魅せる。緩急強弱のメリハリがはっきりしていて、解釈にも恣意的なところや曖昧なところがない。ベートーヴェンのテンションに完璧に対応した演奏であり、音符と一体化しているようなピアノである。音質は古いが、エドウィン・フィッシャーの演奏(1935年録音)も素晴らしい。フィッシャーはベートーヴェンについて「作曲家の付した発想記号が、ついには我々自身の感情と一致するにいたるのでなければならない」と書いた人であり、それがここで実践されている。ベートーヴェンの精神を伝える演奏だ。

 この作品は録音が多く、名演も多いが、ほかに私が感銘を受け、何度も聴いているのは、ルドルフ・ゼルキン(1962年録音)、エミール・ギレリス(1973年録音)、スヴャトスラフ・リヒテル(1960年録音)である。ゼルキンが第3楽章で聴かせる高音は、きれいに澄んでいながらゾッとするほど切迫感を帯びている。度を越してスピーディーなものもいくつかあるが、その中ではワルター・ギーゼキングの演奏(1947年放送録音)が気品と猛威を共に感じさせる。


ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
[1770.12.16頃-1827.3.26]
ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品57「熱情」

【お薦めディスク】(掲載ジャケット:上から)
アリーヌ・ヴァン・バレンツェン(p)
録音:1957年頃

エドウィン・フィッシャー(p)
録音:1935年