ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」
2023.09.05
エラール・ピアノが可能にした表現
ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」は1803年から1804年にかけて作曲された。この時期、ベートーヴェンの創造意欲はとどまるところを知らず、ピアノ協奏曲第3番、クロイツェル・ソナタ、交響曲第3番「英雄」、三重協奏曲など、傑作を次々と生み出していた。どの作品にも情熱と革新性がみなぎっていて、強い個性を放っている。音楽そのものが「私はベートーヴェンだ」と主張していると言っても過言ではない。「ワルトシュタイン」も同様で、作曲者の才能と個性が爆発している。
この作品には3人の人物が直接的ないし間接的に関わっている。1人目は献呈先となったワルトシュタイン伯爵。伯爵はボン時代からベートーヴェン少年の才能を認め、フォルテピアノを与え、経済的に援助し、ウィーンに送り出す時には、「モーツァルトの精神をハイドンの手から受け取りたまえ」と記念帳に記した。パトロン以上の恩人と言うべき存在である。ベートーヴェンがこのソナタを伯爵に献呈したのは、感謝の気持ちからだけでなく、自身の成長をみせる意味もあったかもしれない。
2人目はピアノ製作者のエラール。1803年、ベートーヴェンはピアノをエラールから贈られた。それまで使用していたヴァルター・ピアノの音域は5オクターヴだったが、エラール・ピアノは5オクターヴ半。これにより、高音域が広がった。さらにペダルが4本搭載され、全音域にわたり三重の弦が張られていた。イギリス式アクションで低音域の和音が豊かに響くようになったことも、ベートーヴェンには望ましかっただろう。エラール・ピアノなくしてワルトシュタイン・ソナタは存在し得なかったといっても過言ではない。音域の幅を広げ、ペダリングについて細かく指示をしていることからも、ベートーヴェンがこのピアノの性能を活かそうとしていたことが分かる。
3人目はピアノの弟子ヨゼフィーネ・ブルンスヴィク。ベートーヴェンは1805年に「ピアノのためのアンダンテ」を出版し(後年「アンダンテ・ファヴォリ」と改題)、ヨゼフィーネに贈り、「あなたのアンダンテ」と呼んだ。しかし、これはもともとワルトシュタイン・ソナタの第2楽章として作曲されたものである(作品全体が長くなりすぎると友人たちに忠告され、ベートーヴェンは最終的にこの楽章を取り外した)。オリジナルの第2楽章にヨゼフィーネへの想いが込められているのだとしたら、他の楽章にも同じような部分があるのではないかと考えても別に不自然ではないだろう。作曲当時、2人は交際していた(いわゆる「不滅の恋人」だったという説もある)。
第1楽章はアレグロ・コン・ブリオ。ハ長調。低音域で主和音が連打され、その上を高音域の音型が軽快に躍動する。なんとも型破りな第1主題だ。急速な起伏をつけて盛り上がった後、穏やかな第2主題がゆったりと奏でられるが、すぐに新たな楽想が加わって高揚する。展開部は第1主題を変型させ、転調しながら熱気を醸す。寄せては返す波のような音型の反復を経て、滑降するように再現部へとなだれ込み、第1主題が勢いよく奏でられる。第1主題は再度繰り返され、第2主題も再現され、長大なコーダに突入。最後は第1主題が加速して駆け上がるようにして締めくくる。
第2楽章はアダージョ・モルト。へ長調。28小節という短さである。冒頭で奏でられる主題は、深い思索に耽るかのような雰囲気を持つ。中間部はメロディアスだが、すぐに冒頭の主題が戻り、緊張感を漂わせて転調する。その緊張から解放されるかのように、切れ目なく第3楽章が始まる。第3楽章はアレグレット・モデラート。ハ長調。ロンド主題は明るく穏やかだ。第2主題はイ短調、第3主題はハ短調、どちらも劇的な性格を持つ。第3主題が登場し、華やかに駆け回った後、ロンド主題の冒頭が高らかに鳴り響き、静かな経過句に入るところが美しい。ここからロンド主題が再現され、大きな起伏をみせる。コーダはプレシティッシモで、高度な技巧を披露し、最後はハ長調で力強く締められる。
楽譜をみると、強弱記号(特にpp)を積極的に用いていることが分かる。第3楽章ではダンパーペダルの記号Ped.がいくつも書き込まれている。作曲者の指示が細かい分、演奏者にとっては苦労も多い。第3楽章の超高速コーダではオクターブ・グリッサンドが登場し、しかもピアニッシモで弾くように指示されているが、これは技巧的にはかなりの難所である。さらにその後、長大なトリルが続くのだから容赦がない。
録音の種類は非常に多く、技巧的な演奏、情熱的な演奏、実直な演奏など、いろいろある。技巧が前面に出た演奏だと、最初は「すごい」となるが、音の緩急強弱の運動をひたすら見せられているような感じがして、飽きてくる。かといって冒頭の連打のリズムがずれていると、それはそれで気になる。ほかの部分は良くても、第3楽章の主題をフォルテッシモで弾くところでヒステリックな叫びになり、辟易させられることもある。同じフレーズの繰り返しが単調に響くこともある。意外と満足できる演奏は少ない。
その少ない演奏の一つがフランソワ=ルネ・デュシャーブル盤である。優しいタッチで弾かれているが、音はくっきりしていて、重みもある。強弱の表現も繊細で美しいし、敏捷に動くわりに、リズムの取り方が落ち着いている。かといって整然としているわけではなく、自由な表現意欲もみられる。第1楽章の再現部に至るまでのクレッシェンドの荒ぶり方も忘れがたい。ルドルフ・ゼルキン盤(1973年ライブ録音)は気合いのこもった演奏で、雄大なスケール感がある。強弱の付け方も細かく、ピアニッシモの音に豊かな表情をつけている。ハンス・リヒター=ハーザー盤(1956年録音)は骨格がしっかりしていて、左手の力も強め。ピアノの響きは明瞭で屹然としている。実直で、格調高い演奏である。マウリツィオ・ポリーニによる2度目の録音(1997年ライブ録音)も良い。技術的に申し分なく、また、若い頃の演奏と違い、音に柔らかみと深みがあり、フレージングもしなやかだ。ヴィルヘルム・ケンプ盤(1964年録音)とウラディーミル・アシュケナージ盤(1988年録音)は、第3楽章が素晴らしい。両盤とも第2楽章から第3楽章に移行する際、ふわっと世界観が変わるような印象がある。
(阿部十三)
【関連サイト】
BEETHOVEN PIANO SONATA No.21 op.53 "Waldstein"(CD)
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
[1770.12.16?-1827.3.26]
ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 作品53「ワルトシュタイン」
【お薦めの演奏】(掲載ジャケット:上から)
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録音:1995年
ルドルフ・ゼルキン(p)
録音:1973年ライブ
マウリツィオ・ポリーニ
録音:1997年ライブ
[1770.12.16?-1827.3.26]
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