音楽 CLASSIC

モーツァルト ピアノ協奏曲第27番

2026.03.24
無駄のない美しさ

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 モーツァルトは1781年にウィーンに移住してから、予約演奏会のために数多くのピアノ協奏曲を書いてきた。ピアノ協奏曲第11番から第25番はその時期の産物である。しかし、1787年頃からウィーンでの人気に翳りが見えはじめ、予約客不足に悩まされるようになった。この年から亡くなる年(1791年)までに書かれたピアノ協奏曲は2作のみ。1788年2月に書かれた第26番「戴冠式」は、翌年4月にどうにか初演の機会を得たが、同じ年に書き進められていた第27番は発表するあてもなく、数年間放置された。
 第27番の作曲を再開したきっかけは、経済状態が急速に悪化し、予約演奏会を開こうとしたためではないかと言われている。完成したのは1791年1月5日。しかし予約演奏会は開かれず、同年3月4日、宮廷料理人イグナーツ・ヤーン邸で催されたクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアの演奏会で、披露された。自分が主役でなくても、作品を披露して報酬を得られるなら良いと判断したのだろうか。

 本当に予約演奏会を開こうとしたことが作曲の動機なのかは疑わしい。第27番は、そう考えたくなるほど、純真な音楽である。名人芸を発揮する技巧的な部分が少なく、華やかで輝かしいところもなく、美しさや力強さを誇示するようなところもない。とにかく澄んでいる。新作を期待する不特定多数に向けて書かれたという感じがしない。この作品が驚きや称賛をもって迎えられることをモーツァルト自身が期待していたとも思えない。ただ書かずにいられなかったという思いが先行している感じがする。

 第1楽章はアレグロ、変ロ長調。波打つような伴奏に誘われてのびやかな第1主題が現れる。その後10小節ほど経て、リズムが軽やかで特徴的な第2主題が登場。経過句も美しく明るい。ピアノの登場の仕方も派手やかなものでなく、第1主題を示し、流れるように進んでいく。途中で暗い副主題が出てくるが、巧みに転調され、明るさを取り戻す。展開部では第1主題を軸とし、転調を繰り返した後、ピアノが分散和音を奏で、ヴァイオリンの音が重なっていく(第225小節〜第229小節)。ここは格別美しい。再現部はほぼ型通りに進み、カデンツァを経て締め括られる。
 なお、古い録音の中には、第1楽章の第47小節から第53小節がカットされたものが少なくない。この部分はモーツァルトが最終的に追加したもので、それを当時の出版社が転写し忘れたらしい。管弦楽提示部に広がりが出る重要なところで、現在では演奏されるのが一般的である。

 第2楽章はラルゲット、変ホ長調。三部形式である。独奏ピアノが愁いを含んだ主題を奏で、管弦楽がそれを繰り返し、主題をささやかに展開させる。中間部では主題の面影を残した旋律が登場し、幾分リズミカルに進行する。静かで、無駄な音は一切ないが、音楽としては実に表情豊かで、「最小限の音で必要なことを全て表現する」という境地を示している。

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 第3楽章はアレグロ、変ロ長調。ロンド形式とされるが、展開部のないソナタ形式とみる向きもある。まず独奏ピアノが8分の6拍子で軽快な第1主題を提示し、管弦楽が繰り返す。明るい気分で進み、活気を増した後、副主題が登場。美しい経過句を経て、陽気な第2主題が現れる。再現部は第1主題で始まるが、短調に移って徐々に劇的な重みを帯びる。そこから仕切り直しで第1主題を明るく登場させ、副主題、第2主題を再現。優美で流麗なカデンツァを終えると、第1主題が現れて悠々と進行し、最後は明るく華やかに閉じられる。
 第1主題は歌曲「春への憧れ」に流用されたことでも知られている。春の到来を心待ちにする、飾り気のない純真な歌詞だが、苦しい生活の中でこういう屈託のない音楽を書いてしまうところが、モーツァルトらしい。

 かつて評論家の吉田秀和はこの作品について、「室内楽よりもっと内面的であり、十八世紀当時の教会音楽よりもっと精神化され霊化された音楽」と書いていた。言い得て妙である。ここまで脱俗的で、無駄が削ぎ落とされ、純乎たる美が表現されていながら、麗しい旋律を持ち、大衆性を保っている例は、極めて稀である。諦観の境地から生まれたと解釈する研究者もいるが、この作品に関しては諦めというより解脱という方が適しているように私は思う。

 美しい音楽には、美しい演奏がふさわしい。かといって、美しく演奏することをあまり意識すると、うまくいかない。オーケストラが過度に繊細な表現をしようとして、音が明瞭さを欠き、脆弱化している例は多い。また、ピアノについても、シンプルなフレーズの中で手の動きが緩慢になったり、わざとらしくなったりすることがある。ピアノは良いがオケは今ひとつパッとしないというパターンもみられる。満足できる演奏は少ない。

 エミール・ギレリスとカール・ベームの共演盤(1973年録音)は、心から素晴らしいと思える演奏の一つである。ピアノは誠実で純真、力みがなく、それでいて音の響きは美しく明瞭だ。ベームのサポートも完璧。ウィーンフィルのアンサンブルはしなやかで流麗、縦の線も合っている。第1楽章展開部の第225小節からのフレーズなど、これ以上美しく演奏された例はない。この部分に限らず、管弦楽の音の重ね方、強弱の付け方が絶妙で、安心して聴いていられる。
 同じ指揮者、オーケストラとの組み合わせでヴィルヘルム・バックハウスが独奏を務めたもの(1955年録音)もあり、これも美しい演奏だが、アンサンブルは緩い。縦の線が合っていないところがあり、ギレリス盤と比べると、少し気が抜けているように感じられる。

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 ルドルフ・ゼルキン独奏、ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管の演奏(1962年録音)は骨格がしっかりしていて、弱音の表現にも曖昧さがなく、ピアノや管弦楽の動きを掴みやすい(音質も良い)。
 ただ、ゼルキンが弾いたものだと、アレクサンドル・シュナイダーとの共演盤(1955年録音)の方が闊達で、面白い。孤独の影を抱えたり、生気に満ちて溌剌としたり、集中的に熱気を帯びたり、純真無垢になったりと短い小節間でピアノの表情が千変万化している。音質は古く、オケの演奏も荒っぽいが、心に残る名演だ。クラウディオ・アバドとの共演盤(1982年録音)は、技巧的な冴えはないが、語りかけるようなピアノの音が驚くほどみずみずしい。アバドのサポートも温かく、ゼルキンに対するリスペクトが感じられる。
 クリフォード・カーゾン独奏、ベンジャミン・ブリテン指揮、イギリス室内管の演奏(1970年録音)は淡々としているようで味わい深い。ピアノに品格があり、ちょっとしたフレージングにも繊細な味わいがある。第1楽章展開部の第225小節からのフレーズも美しい。
(阿部十三)



【関連サイト】
Mozart Piano Concerto No.27 in B♭ major K.595(CD)

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト
[1756.1.27-1791.12.5]
モーツァルト ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595

【お薦めの録音】(掲載ジャケット:上から)
エミール・ギレリス(p)
カール・ベーム指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1973年

ルドルフ・ゼルキン(p)
アレクサンドル・シュナイダー指揮
コロンビア交響楽団
録音:1955年

クリフォード・カーゾン(p)
ベンジャミン・ブリテン指揮
イギリス室内管弦楽団
録音:1970年

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