音楽 POP/ROCK

ピンク・フロイド『狂気』

2011.03.22
Dark Side of the Moon
ピンク・フロイド
『狂気』

1973年作品


 プログレッシヴ・ロックの巨人ピンク・フロイド。その始まりは多くのバンドと同様、非常にささやかなものであった。ロンドンの建築工芸学校に通っていたロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、ニック・メイソンはシグマ6を結成。グループ名を気紛れに何度も変更しつつ、遊びの延長という程度の活動を展開していた。しかし、65年にロジャーの旧友であったシド・バレットが加入した辺りからアンダーグラウンド・シーンで急速に頭角を現わし始める。シドは幻想的な世界観とポップ・センスを併せ持った曲を次々書き上げ、ピンク・フロイドの噂は日増しにロンドンの音楽ファンの間に伝播していった。そして67年にはメジャー・レーベルとの契約に漕ぎ着け、8月には1st『夜明けの口笛吹き』をリリース。巧みな音響構築が施されたこのアルバムは、サイケデリック・ミュージックの最先鋭として注目を集めたのであった。

 プロとして順調なスタートを切ったかに見えた彼ら。しかし、すぐに暗雲が立ちこめ始める。シド・バレットが精神に異常をきたし始めたのだ。ライヴで延々と1コードを弾き続けたり、ステージに現れないことも当たり前。「ツアー・バスを降りたと思ったら、一瞬で神かくしのように姿を消した!」「ギターの弦を手で叩きながらチューニングしようとしていた!?」など、怪し気な噂も信憑性を持って広まるほどにシドの神経衰弱は目に見えて重度のものであったという。結局他のメンバーはデイヴ・ギルモアを新しいギタリストとして迎え入れることで、この危機を乗り越えることを決意。シドは表舞台には立たず、ソング・ライティングのみでバンドを支えるという構想であった。しかし、シドの病状は悪化の一途を辿り、68年3月にはとうとう脱退。作曲の大半を手掛けていたメンバーを失って途方にくれた4人。しかし同年、試行錯誤の末に完成させた2nd『神秘』は前作以上の評判となり、以降ピンク・フロイドは世界的なモンスター・バンドへと成長していった。

 ピンク・フロイドの音楽は、とにかく革新的なものであった。歌やメロディは、彼らにとってサウンドの一要素にしか過ぎない。効果音や無数のエフェクトを的確に添加し、音像を変幻自在に操りながら生み出されている世界。この刺激を受け止めることは〈聴く〉と言うよりも〈体験する〉という方が実感に近い。それまでのロック、ポピュラー・ミュージックの喜びの主流であった〈唄える〉〈踊れる〉というようなこととはまた別次元の扉を音楽ファンに開いたのがピンク・フロイドだった。そして、このような魔力をライヴに於いても実現するために、彼らはライティングや映像を音とリンクさせながらのパフォーマンスを繰り広げたり、何台ものスピーカーで客席を囲むことによる立体的な音響効果も作り上げていった。つまり、ロック・バンドの形はとりつつもピンク・フロイドが目指していたのは、五感の全てを震わすような総合芸術。そんな彼らの中に「一貫したテーマがあるコンセプト・アルバムを作りたい」という願望が育まれていったのも、ごく自然なことだったと言えよう。こうして辿り着いたのが73年3月にリリースされた9th『狂気』(原題『THE DARK SIDE OF THE MOON』)だ。

 解釈は人各々にあるだろうが、『狂気』全体から伝わってくるものは端的に表すならば、人間の内奥に拭い去りようもなく蠢いている醜悪な性質だ。物欲、エゴ、悪意、破壊願望などが各曲で描き上げられていく。まず注目すべきは、歌詞は勿論のこと、サウンドもコンセプトに完全に合致している点だろう。例えば「タイム」。日々の暮らしの中で徒に浪費されていく生命、その虚無感をあぶり出すバックグランドに鳴り響いているのは、無数の時計の刻みとベルの音だ。苛立たしげにぶつかり合う金属音が底知れぬ焦燥感を呼び起こす。あるいは金銭欲がひたすらにギラつく「マネー」。ここではレジスターとコインの音がリズム・パターンを構成しながら、利潤追求のいやらしさを映し出す。サンプラーなどまだ存在しない時代の音源とは思えないほどの革新的なサウンドだ。しかし、これら全ては手法の奇抜さや斬新さを目的としたものでは断じてない。楽曲のあるべき姿に辿り着くための唯一絶対の構成要素として、あらゆる音が選択、配置されている。そんな真只中をギター、ベース、キーボード、ドラムというピンク・フロイドのロック・バンドとしての生身の肉体も、絶好のダイナミズムを発揮しながら突き進んでいく。特に「マネー」でのギター・ソロがリードする部分は、ロックンロール史上に残るスリリングな一場面だと言えるだろう。

 そして、本作は終盤にさしかかると、神々しい光を果てしなく迸らせながら、さらに妖艶に展開し始めるのだ。大聖堂に響き亘る宗教曲のような荘厳さを火照らせる「アス・アンド・ゼム」。オルガンとギターの幻想的な揺らめきが、あたかも本作ジャケットのアートワークのような虹色の光彩を浮かび上がらせる「望みの色を」。雄大に広がる演奏とコーラス/品性の欠片もない笑い声、その無気味なハーモニーが人間の二面性を告発するかのような「狂人は心に」。ひたすらにクライマックスへと突き抜け、やがて生命の原初の鼓動へと収束して行く「狂気日食」。この4曲の連続は息を呑んで聴き入る他ない。

 完璧という言葉は芸術作品の素晴らしさを表すのに必ずしも適切ではないだろうが、『狂気』はまさしく完璧なアルバムだ。理屈抜きの刺激/理詰めで探究したくなる奥深い世界観がこれほどまでに幸福に融合した作品は、そう滅多に生み出されるものではない。当然ながら世界的な大ヒットとなり、英国チャートでは2位、全米チャートでは1位。いや、それに止まらず、ビルボードのトップ200位に15年間(73年〜88年)チャートインし続けるという、前代未聞の記録を樹立したのであった。これは本作がプログレッシヴ・ロックのファンのみならず、さらに多くの人々に訴えかける絶大な力を持っていたことを雄弁に物語っていると思う。そして勿論、『狂気』は今尚ゾクゾクするほどに魅力的、これから先も決して色褪せるはずもない1枚なのだ。
(田中 大)

【関連サイト】
PINK FLOYD THE OFFICIAL SITE(英語)
ピンク・フロイド
『狂気』収録曲
01. スピーク・トゥ・ミー/02. 生命の息吹き/03. 走り回って/04. タイム/05. 虚空のスキャット/06. マネー/07. アス・アンド・ゼム/08. 望みの色を/09. 狂人は心に/10. 狂気日食

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