ジュリー・クルーズ 『フローティング・イントゥ・ザ・ナイト』
2022.06.20
ジュリー・クルーズ
『フローティング・イントゥ・ザ・ナイト』
(1989年作品)
最初にクリアにしておきたいのだが、ジュリー・クルーズの作品を選んだのは、彼女が急逝したからではない。以前から取り上げたいと思っていて、たまたま「じゃあ今月はこれで」と決めた数日後に訃報が届いたのだが、これも縁みたいなものだと受け止めて、1989年発表のファースト・アルバム『Floating into the Night』を予定通りにご紹介したい。映画監督のデヴィッド・リンチも追悼メッセージの中で、「今こそ彼女が作った音楽の素晴らしさを再確認し、偉大なシンガー、偉大なミュージシャン、偉大な人物であったこと記憶に刻むべきではないだろうか」と話していたので。
ジュリーが32歳にしてリリースした本作は言うまでもなく、そのリンチ監督との出会いがあってこそ誕生した偶然の産物だった。代表作のひとつ『ブルーベルベット』(1986年公開)で、彼は以後音楽的パートナーとなる作曲家のアンジェロ・バダラメンティと初めてコラボしたのだが、当初はディス・モータル・コイルの「Song to the Siren」(1984年)を挿入歌に希望していたという。ご存知、英国4ADレーベルのオールスター・プロジェクトによる、ティム・バックリーの名曲のカヴァーだ。しかし使用料が高過ぎたために断念し、代わりにアンジェロと「Mysteries of Love」という曲を書き下ろし、アンジェロに紹介されたジュリーをシンガーに起用。彼女の声に惚れ込んだふたりは、そのままフル・アルバムを共同プロデュースすることになる。
つまり、「Song to the Siren」がすんなり手に入っていたら本作は生まれていなかったし、世界がジュリー・クルーズを知ることはなかったのかもしれない。ただ、果たして我々はこのアルバムでジュリーを知ったのかと言えば、そこも微妙なところ。なぜって歌詞は全て監督が綴り、作曲はアンジェロが担当。しかも、当時舞台俳優として演劇やミュージカルで活躍していた彼女は、声量豊かでパワフルな歌い手だったにもかかわらず(舞台でジャニス・ジョプリンを演じたこともあるそうだ)、ここでは「Song to the Siren」でシンガーを務めたコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーの唱法をモデルに、エンジェリックなウィスパー・ヴォイスで歌った。よってある意味で、俳優として要望されるままにキャラクターを演じたようなところがある。
リンチ&バダラメンティのコンビは、そんな彼女の歌声の魅力を引き出すべく、名プレイヤーたちを揃えてレコーディングに臨んだ。アンジェロが自らピアノやシンセを担当し、タイプが異なるふたりのギタリストが参加。エディ・ディクソンは俳優としても『ワイルド・アット・ハート』ほかリンチ作品に出演しているロカビリー系プレイヤーで、ヴィニー・ベルは1960〜70年代にフランク・シナトラやボブ・ディランを始め多くの大物の作品で活躍し、数々のエフェクト・ペダルの開発に携わった人物だという。サックスとクラリネットを吹くアルバート・レグニも、半世紀にわたってニューヨーク・フィルハーモニックに在籍しながら、ジャズや映画音楽の世界でも活動する名手。微かにしか聴こえないドラムでさえ、やはりジャズとソウルをまたにかけてビッグネームとプレイしてきたグレイディ・テイトが起用された。そして一同は、「Song to the Siren」に準じるドリーミーなアンビエントを基調にしつつ、リンチ作品の音楽が共有するオールディーズの要素ーーロカビリーやドゥワップに根差したメロディやアレンジをミックス。ほのかな懐かしさが漂う中に、シンセが妖しげに揺らぎ、サックスが唐突に鳴り響いて時代や場所の感覚を狂わせ、異次元のアメリカーナへと誘うのである。
甘い愛の言葉で手招きしたり、遠い昔の愛の記憶を呼び覚まそうとしている歌詞もまた、〈セイレーンに捧げる歌(Song to the Siren)〉そのもの。リンチ&バダラメンティはまさしく、美声で船乗りを水の中に誘い込む海の精(正しくは〈モンスター〉だろうか?)を体現する存在としてジュリーに全権を委ね、シンプル過ぎるくらいの言葉に彼女は、破壊的な欲求を奥底に含んだ渇望感や、狂おしい思慕の念を吹き込むようにして、深く暗い水の中から歌った。そう、〈闇の中に漂っていく〉というアルバム・タイトルを字義通りに描いたジャケットそのものの世界が、ここには広がっているのだ。
さらにこのアルバムのリリースの翌年、リンチ監督はTVドラマ『ツイン・ピークス』のテーマ曲に「Falling」を引用。かつ、本作から数曲が挿入歌に使われただけでなくジュリー自らシンガー役で出演し、劇中で「Falling」を披露した。深紅のカーテンを背景にして歌うブロンドヘアの彼女の姿は、『ツイン・ピークス』の象徴として、あのローラ・パーマーの亡骸と同等に強烈な印象を残し、ヴィジュアル・イメージにおいてもジュリーはひとつのキャラクターを確立してそれを演じ切った感がある。
そしてドラマのヒットで一躍知名度を上げた彼女は、その後アルバムをもう1枚一緒に作るなど(1993年発表の『The Voice of Love』)、様々な形でリンチ&バダラメンティとコラボを行なったのだが、他方で本業も続行。1990年代には長期にわたってB-52'sのツアーに加わり、シンディ・ウィルソンの代役を務めた。当時の映像を探してみると、踊りながら伸びやかな歌声を聴かせているし、ふたりが関わっていないサード『The Art of Being a Girl』(2002年)と4作目『My Secret Life』(2011年/ディー・ライトのDJディミトリーと連名で発表)でも、恐らく元来のスタイルなのだと思われる、表情豊かでシアトリカルなヴォーカルが体験できる。
とはいえ大多数の音楽ファンの記憶に刻まれているのはやはり、リンチ・ワールドの住人としてのジュリーであり、セイレーンのジュリー。2018年になってインディ・レーベルのSacred Bonesから、本作の3つの収録曲(「Floating」「Falling」「The World Spins」)のファースト・デモ集『Three Demos』がリリースされ、シンセのテクスチュアだけを伴ったテイクが収められているので、こちらもぜひ聴いて頂けたらと思う。30年以上が経ってなお彼女の魔力は絶大で、このままの状態でも何ら不足はないパーフェクトな歌に魅入られずにいられない。RIP。
(新谷洋子)
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