音楽 POP/ROCK

ティアーズ・フォー・フィアーズ 『ザ・ハーティング』

2023.02.25
ティアーズ・フォー・フィアーズ
『ザ・ハーティング』

1983年作品

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 多くの音楽ファンにとって、アーサー・ヤノフという名前と引き合わせてくれたアルバムと言えば、ジョン・レノンの初のソロ作『ジョンの魂(John Lennon/Plastic Ono Band)』(1970年)であり、殊にオープニングを飾る曲「マザー」なのではないかと思う。主に伯母に育てられた彼は、両親の不在というトラウマを抱えたまま大人になり、一時期、アメリカ人の心理学者であるヤノフが提唱する原初療法に傾倒。4カ月間にわたって療養所に滞在し、トラウマのルーツを辿って大声を発することで苦痛から自分を解放するという治療を受けた。その体験が同作には反映されていたわけだが、今からちょうど40年前にもう1枚、ヤノフとの関わりが深い作品が誕生している。2022年に18年ぶりの新作を発表して改めて注目を浴びた、ティアーズ・フォー・フィアーズのデビュー・アルバム『ザ・ハーティング(The Hurting)』(1983年/全英チャート最高1位)だ。

 メンバーのカート・スミスとローランド・オーザバルは、少年時代にイングランド南部バースで出会い、当初は他の友人たちとモッズ系のロックを鳴らしていたという。しかし、同い年で(1961年生まれ)共にワーキングクラス出身、3人兄弟の真ん中、両親の離婚・別離に伴って母親に育てられ、幸せとは言えない子ども時代を送ったふたりは自然に結束を強め(ローランドの場合は父による家庭内暴力にも苦しめられたとか)、シンセサイザーの可能性に目覚めたことを機に独自のアーティスティックなヴィジョンを抱いて、新たに曲作りを始めたのが1981年のこと。ジョンと同様にヤノフに傾倒し、幼少期のトラウマとそれが人間の成長に及ぼす影響を音楽で掘り下げるべく結成したのが、ティアーズ・フォー・フィアーズだった。何しろバンド名からして、ヤノフの著書で見つけた「涙は恐れに代わるもの」との言葉に因み、デビュー・シングル「Suffer Little Children」の題材は、いわゆるネグレクト。新約聖書マタイによる福音書(「幼子らをそのままにしておきなさい。私の元に来るのを止めてはならない。天国とはこのような者たちのためにある」)からタイトルを引用し、ローランドの妻キャロラインの無邪気なコーラスと軽快なシンセで平静を装いながらも、愛情を充分に受けなかった少年の孤独と悲しみを歌い、〈子を持つことに伴う責任をあなたは自覚しているのか〉と親に問うている。続いて登場したセカンド・シングル「Pale Shelter」でも親にフラストレーションをぶつけており、自らの関心事を第一日目から前面に押し出していたと言えよう。

 もっとも、1981年秋に発表した「Suffer Little Children」はヒットに至らず、「Mad World」と「Change」の両シングルが全英トップ5に入って、彼らがブレイクを果たしたのは翌年以降だ。この間ふたりは、心の奥底に押し込んでいた子ども時代の体験を掘り起こしながら、じっくり時間をかけてコンセプト・アルバムと呼んで差し支えない本作のレコーディングにあたった。ヴォーカルは代わる代わる担当したが、全曲のソングライティングを手掛けたのはローランド。彼はカートの想いも汲みつつ、長年抱えてきた痛み(=the hurting)と正面から向き合って歌詞を綴っている。冒頭の表題曲で〈赤ん坊みたいに/泣く術を身に付ければ/痛みは遠のく〉と早速原初療法に言及し、2曲目の「Mad World」では疎外感に苦しむ少年の姿を、断片的なイメージを連続させることで描写。〈僕が死ぬという筋書きの夢は/これまで見た中で最高の夢だった〉というくだりは、自殺願望をも匂わせる。ロードやアダム・ランバートら無数のアーティストにカヴァーされてきたヒット・シングルに、こんなにも残酷な言葉が含まれていることに、ほとんどの人が気付いていないんじゃないだろうか?

 そして、〈僕は音を立てず/痛みを隠し/目を閉じて/不平は言わないで/仰向けになって責めを負う〉と淡々と述べる「Watch Me Bleed」や、これまたヤノフの著書からタイトルを得た「Ideas As Opiates」では、辛い記憶を否定したり、苦しみにひたすら耐えることのダメージの大きさを強調する。「Memories Fade」で歌っている通り、「思い出は薄れても傷跡は残る」のだから。

 それでも幾らかの救いはある。終盤の2曲――〈君は変わることができる〉と繰り返す「Change」と、〈愛が僕を解き放ち/囚人は今脱走しようとしている〉と歌う「The Prisoner」――は、カタルシスを得るまでには至っていないものの一縷の希望を覗かせ、それまでのダウナーなトーンから一転、躍動し熱を帯びたサウンドもふたりの必死の抵抗を感じさせるものだ。そう、「Change」と言えば激しく打ち鳴らされるマリンバの音が印象的なのだが、こうしたトライバルなライヴ・パーカッションとドラムマシーン、或いは、アコギやサックスといった生楽器とシンセを並置させた抒情的なサウンド・プロダクションが、センシティヴな題材を丁寧に縁取っているところも、歌詞に劣らぬ本作の強み。クリス・ヒューズ(トライバル・ビートを特徴とするアダム・アンド・ジ・アンツの元ドラマーだ)をプロデューサーに迎えたことに加えて、ふたりが愛するトーキング・ヘッズの『リメイン・イン・ライト』やピーター・ガブリエルの『ピーター・ガブリエルIII』の影響も大きかったのだろう。そして、セカンド『ソングス・フロム・ザ・ビッグ・チェア』(1985年)ではご存知のように、この抒情性をオーガニックかつアンセミックに進化させ、徹底して内向きな『ザ・ハーティング』に対し、より積極的にコミュニケートしようとする作品を仕上げるのだが、ここでも歌詞には本作のテーマが引き継がれていた。アルバム1枚で解けるトラウマでは到底なかったのだ。

 ちなみにローランドは、サード『シーズ・オブ・ラヴ』(1989年)のレコーディング中にようやく原初療法を自ら受けて効果を実感したそうだが、この頃にはカートとのパートナーシップに亀裂が入り、次の2作品は彼のソロ・プロジェクトとして制作。ふたりが関係を修復して、次にデュオとしてアルバムを発表したのは2004年だった。それから最新作『Tipping Point』のリリースまでに、冒頭で触れた通りさらに18年の空白が生まれたのは、心を病んだキャロラインの看病にローランドが忙殺され、音楽を作れる状態ではなかったためだという(彼女は2017年に死去)。それゆえに『Tipping Point』には妻の病状にインスパイアされた曲も含まれ、ほかにも彼女の死後ローランドが必要としたPTSDの治療から、パンデミック下の世界のカオスに至るまで、幅広いテーマを網羅。とあるインタヴューで彼は「今作は幼少期のトラウマではなく、ただ生きていることに伴うトラウマに関するアルバム」と語っていたものだが、そんな最新作と『ザ・ハーティング』は、40年の歳月に隔てられながらも深い悲しみによって結ばれているように思う。
(新谷洋子)


【関連サイト】
Tears For Fears
Tears For Fears『The Hurting』(CD)
『ザ・ハーティング』収録曲
1. THE HURTING/2. MAD WORLD/3. PALE SHELTER/4. IDEAS AS OPIATES/5. MEMORIES FADE/6. SUFFER THE CHILDREN/7. WATCH ME BLEED/8. CHANGE/9. THE PRISONER/10. START OF THE BREAKDOWN

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